ニュースレター

2016年03月31日

 

東日本大震災から5年 ~ 福島視察から

Keywords:  ニュースレター  再生可能エネルギー  教育  震災復興 

 

JFS ニュースレター No.163 (2016年3月号)

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、地震と津波による1万5000人を越える死者、今なお2,500人を越える行方不明者を出す大惨事となった上、福島第一原子力発電所の未曾有の原発事故を引き起こしました。震災から5年たち、特に大きな被害を受けた東北地方全体としては徐々に復興が進んでいるものの、原発事故の起こった福島県、特に福島第一原発から半径20キロの圏内では、今なお8万人に及ぶ人々が避難を余儀なくされています。

2016年2月、一般社団法人あすびと福島 代表理事 半谷栄寿氏のご厚意により、東京都市大学教授でJFS 代表 枝廣淳子のゼミに所属する学生とともに、原発から半径20キロ圏と、福島復興の人材育成のために作られた施設「南相馬ソーラー・アグリパーク」を見学し、現地の様子を詳しく伺いました。今月号のJFSニュースレターでは、この視察の模様と、福島の復興を担う次世代育成に取り組むあすびと福島の取り組みをお伝えします。


東京都心から特急で2時間強、私たちは、福島県南部のいわき駅に到着しました。いわき駅で、出迎えて下さったのは、「あすびと福島」のスタッフのみなさんです。私たちは「あすびと福島」のマイクロバスに乗り換え、海沿いに国道を北上、福島第一原発から20キロ圏内へと向かいました。

住民が戻るかどうか:双葉郡楢葉町(2015年9月5日 避難指示解除)

海沿いの国道を北上し20キロ圏内に入ると、そこは避難指示が解除されたばかりの楢葉町です。町内の除染作業は済んでおり、除染仮置場には、土の表面からはぎ取った土や草などが詰められたフレコンバッグと呼ばれる黒い袋が一面に並んでいました。

半年前に避難指示が解除されたものの、震災前の人口8,000人のうち、400人しか戻ってきていないとのことです。震災から5年、多くの人々が、避難先で新たな人生を歩み出しています。そうした人たちにとっては、町に戻ってくるかどうかは、「『再移住先』として、自分の田舎を選ぶかどうか」という問題だと半谷さんはおっしゃっていました。

震災当時の姿をそのまま残す双葉郡富岡町(2017年3月避難指示解除予定)

楢葉町からさらに北上し、バスは富岡町に入ります。海に面したJR常磐線の富岡駅は、津波によって駅舎が流され、プラットフォームの残骸だけが残っていました。駅の近隣の民家は1階部分が津波で破壊されており、原発事故直後に避難区域に指定されたために人が入れず、5年前の震災発生当時そのままの姿を残しています。「避難指示解除に向けて、富岡駅周辺地域は半壊した民家を更地にすることになっています。私個人としては、震災の経験を忘れないためにも、一部でも残したほうがいいと思っていますが・・」と半谷さんは話してくれました。

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福島第一原発のある双葉郡大熊町(2017年3月避難指示解除予定)・双葉町

福島第一原発は、大熊町に位置しています。原発から近いため、除染・復旧工事関係者以外の一般住民の自由な行き来が幹線道路を除いては終日制限される「帰還困難区域」に指定されている場所では、津波の被害を免れた民家でも盗難の心配があるため、どの家も入口がバリケードで封鎖されていました。

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国道沿いには、除染作業の済んでいない水田地帯がありました。1~2メートルほどの高さの雑木が生えており、元は水田だったと聞かされない限り、そうとはわからないほどに土地が荒れていました。参加した学生からは、時が止まっているような不気味さとせつなさを感じた、との声があがりました。

廃炉作業中の福島第一原子力発電所の鉄塔が見える場所で、半谷さんは「原子力発電所は絶対に安全と信じていた。全電源喪失という事態をまったく想定していなかった。この点においては人災と言われてもしかたがない。元東電の役員として、みなさんに、本当に申し訳なく思っています。」と声を詰まらせていました。

無人の町・南相馬市小高区(2016年夏避難指示解除予定)

まだ避難指示が解除されていない小高区は、津波の影響は少なく普通の町並みと変わりないものの、通りに人がまったくいない様子はゴーストタウンのようでした。「いくら建物が残っても、人がいなければ、町は町として機能しないことを知った」と参加者は話し合っていました。

半谷さんによれば、避難指示が解除されて戻ってくるのは65歳以上の世代が多いとのこと。日本では国全体としても少子高齢化が深刻化していますが、その中でも避難解除地域は、全国の水準を20年先取りすることになります。その意味で、20キロ圏は、高齢化の「先進」地区なのです。そして高齢化問題の「解決」先進地域になれるかは、日本の未来にとっても鍵になります。

南相馬ソーラー・アグリパーク

原発20キロ圏の北の境界は南相馬市原町区にあたります。その原町区にある南相馬ソーラー・アグリパークは、被災地の復興を担う次世代を育てるために、津波で流された民家5軒の跡地と農地を活用して、2013年3月にオープンしました。

敷地内には、自然エネルギーの体験学習のため、人力で水力タービンをまわしての発電、水をポンプでくみ上げて揚水力による発電を体験できる小型の水力発電設備や、どの方角にパネルを向けるともっとも効率よく発電するか手動で角度を調整できるソーラーパネルが設置されており、到着するとさっそく大学生が発電を体験していました。

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また、次世代育成や企業研修のための簡易研修施設を備えており、到着後は、小グループに分かれ、ディスカッションを行ないました。「同じ20キロ圏内でも、半壊した建物がそのまま残っている津波の影響を受けた地域と、津波の影響を受けずに町並みは残っているのに無人地帯と化している地域など、場所によって状況は様々」といった、20キロ圏内を実際に訪れて初めてわかったこと、それを見てどう思ったかといった意見が出されました。また、「福島第一原発の近くに、東京まで続く送電線があったけれど、なぜ福島第一原発で発電された電力は、遠くの東京まで送られていたのだろうか」という学生の疑問に対して、さらに議論を深めるなど、活発なディスカッションが行なわれました。

大きな志と小さな実績の積み重ね~あすびと福島

福島の復興に取り組んできた半谷さんは、活動の中で、若い世代が都市部に流出することで、都市と地方の経済格差がそのまま人材格差につながることを懸念し、どうしたら地方で人材を育てられるのだろうと考えるようになったそうです。

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こうした問題意識から、福島の復興を担う子どもたちや次世代の育成のため、2012年4月に半谷さんが立ち上げたのが一般社団法人「福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会」です。体験こそが子どもたちを成長させる、との考えから、2013年4月にオープンした南相馬ソーラー・アグリパークを舞台に、地域の小中学校と連携した体験学習・オープンスクールを通じて、子どもたちの考える力、発表する力、行動する力を育む活動を展開してきました。

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また、2014年5月からは、JFS 代表 枝廣淳子とともに、福島県郡山市で、高校生向けのオープンスクール「半谷エダヒロ塾」を開講し、社会的事業の企画・実践経験を通して、福島の復興を担う若い人材の育成に取り組んでいます。この塾から、「自分が生まれ育った、大好きな福島への風評被害をどうにかしたい」と、高校生編集部が福島県内の農業生産者の想いやストーリーを情報誌にまとめ、生産者が真心こめて育てた農作物を付録として3カ月に1回発行する「高校生が伝えるふくしま食べる通信」がスタートしました。

福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会、復興を担う次世代の人材育成
http://www.japanfs.org/ja/news/archives/news_id035283.html

復興に尽力する人々の姿を見た子どもたちが、「彼らのような大人になりたい」という憧れの連鎖を生み出せたら、という思いで半谷さんは人材育成をしているそうです。また、「志はソーシャル、仕組みはビジネス」として、太陽光発電設備を建設し、売電して得た利益をあすびと福島に寄付する、といった人材育成事業を続けていく上での経済性の確保にも取り組んでいます。

次世代の育成とともに、半谷さんは、現役社会人と福島の復興を一緒に考える、企業研修にも取り組んでいます。2016年1月には、一般社団法人「あすびと福島」に名称を変更し、春からは東京で、高校生のためのオープンスクールを卒業した大学生と企業研修に参加した社会人との合同チームで社会的事業の確立に挑戦することで、大学生を社会起業家に育てる取り組みを始めます。

見学で見てきたように、原発から半径20キロ圏内の状況は様々で、避難指示が解除されても人々が戻ってくるのか、戻ってきて再び町として機能するのか、全国水準より20年先取りして深刻化すると予測されている高齢化の問題など、震災から5年経っても課題は山積みです。こうした問題を次世代の育成を通じて解決していこうという福島での取り組みを、JFSはこれからもお伝えしていきます。

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スタッフライター 坂本典子・新津尚子

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