ニュースレター

2016年02月09日

 

江戸時代の「持続可能な経済」から学び、活かす

Keywords:  ニュースレター  定常型社会 

 

JFS ニュースレター No.161 (2016年1月号)

写真:加藤三郎氏
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加藤三郎氏は、環境行政の現場経験を経た後、NPO法人 環境文明21の代表理事として、環境への負荷が少なく、人々が心豊かに生きられる持続可能な環境文明社会の構築をめざして活動しています。2015年3月に行われた幸せ経済社会研究所によるインタビューでは、これまでの「自由」や「民主主義」がもたらしたゆがみを指摘し、持続可能な社会を長期間維持した江戸時代の知恵から学び、現代に通用するロジックに再構成することの必要性についてお話くださっています。今回のJFSニュースレターでは、この一部を抜粋してお届けします。


(前略)

加藤:すでに成熟した豊かな社会では、経済成長は必ずしも必要ではない。ただし、豊かな国でも、人間として十分尊厳が維持できないような人は結構いるわけです。

たとえば日本で言えば、シングルマザーの家庭など、年収が200万円にも足りない世帯が多い。母親、あるいは父親が1人、体がボロボロになるまで働いているとか、そういうこともありますので、そういう人たちに対しては一概に、「経済成長は必要じゃありません」と言うことは倫理的ではない。

ただ、日本全体、先進国全体で見れば、明かに飽和しているわけですから、あとはむしろ分配の問題になります。分配がうまくいっていないから、年収200万円にも満たないような人が日本にも結構おり、しかも、数が増えているということになる。

アメリカで言えば、1%対99%。「We are the 99 percent.」と考える人たちが増えつつある。そこは分配の問題として考えなくちゃいけない。

さらに、地球には非常に貧しい人たちもまだ10億人以上います。その人たちに対して、「経済成長は必要じゃないですよね」と言うのは倫理的だとは思わない。

これも、地球全体トータルで見れば明らかに、物的には豊かな状況になりつつあるわけですから、国内の問題と同じように、人類社会全体の分配の問題になるんですね。

ですから、国際会議――気候変動問題であれ、この間あった国連の災害防止の会議であれ――、途上国と豊かな国との間の資金や技術の分配問題が大きな問題になるのは、まったくその通りだと思います。

枝廣:経済成長を続けることに伴う犠牲はありますか、あるとしたらなぜ、何でしょうか

加藤:いろいろな面で犠牲はあります。

それを語る前に、さきほど「分配」ということを言いましたが、その分配が難しいんですね。政治的にも理念的にも難しい問題を抱えているのです。

枝廣:理念的......? どういう問題ですか?

加藤:人類社会、特に西洋社会を中心に、過去2世紀前後、「自由」というものを非常に大事にしてきました。思想や言論の自由、政治結社の自由のほか、どういうビジネスをやるかというビジネスの選択にしても、自由が一番大事だ、と。

その自由を維持する中で、自由競争をやってきたわけですね。「自由競争」「自由」というコンセプトの中で、「人は自由に努力しなさい」と。早く走れる人は早く先へ行っていいですよ、あまり努力をしなくて、あるいは才能がなくて遅れるのはしょうがないですね、と。だから、「自由」とか「自己責任」という言葉があるわけです。

それに対して、たとえば最近日本でも非常に話題になったトマ・ピケティ教授みたいに、「自由だ、自由だと言っていると、特に20世紀以降、格差が非常に強くなってしまう」という人もいる。彼はそれを何とかするために、国際的な税を富裕層により多く課税して、その収入を貧しい人にできるだけ回していくことが必要だと主張されている。

それに対して、典型的に言えばアメリカの共和党支持者みたいに、「人間にとって自由は何よりも大事で、その自由の下で制限なんかすべきじゃない。政府が介入したり、自由の結果、金持ちになった人に制限をかけるなんてとんでもない」と言う人たちから見ると、ピケティ的な考え方は間違った考えだ、ということになるわけです。

そういう考え方は今の日本の中にもあります。アメリカの共和党ほど強烈ではないけれども、「人の自由は非常に大事だから、それを制限するのは良くない」と。だから日本でも、金持ちに税金をかけようとすると強く反対される。反対する理由として、「そんなことをやったら金持ちは外国に行っちゃいますよ」みたいな、そういうレベルに落とし込んで議論しているわけですが。

いずれにしても、「分配を適切にすればいいんだ」という「分配」は、政治的にも難しい。まして――ここは非常に大事な点だと思いますが――、「民主政治」がかなり怪しくなってきている今日、分配を適切に行うのは困難だと思わざるを得ないんですね。

なぜかと言うと、お金を持っている人たちが、自分たちの権益を守るために「ロビイング」(ロビー活動)をやる。ロビイング自体は決して悪いとこだとは思っていなかったのですが、お金にあかせてどんどんやっていくというのが、特にアメリカの政治で顕著になってきましたね。連邦最高裁が、「政治的な資金に制限をつけるべきじゃない。お金を出したい人がいれば、無制限に出したっていいじゃないか」という主旨の判断を示しましたね。「自分の思想・心情を実現するためなら、それに合った政治家に無制限にお金を注ぎ込んでもいいじゃないか」というのが、「自由」というものを大事にすると出てくる1つの帰結なんです。

その帰結によってどうなったかと言うと、たとえば気候変動問題についても、石油・石炭関連の業界は手厚い献金を用意して、議員たちにロビイングをし、実際にお金も出して懐疑論なるものを流布させて、必要な対策を取るのを遅らせる。銃の規制だとか、最近の例で言えば、アメリカで非常に大きな政治力、お金を持っているユダヤ人社会がイスラエル支持のロビイングをやりました。

そうなると、本来、政治の形態としては理想だと思っていた議会制民主主義は、かなりゆがんできている。

日本でも、アメリカほどではないけれども、政治がゆがんできている。ヨーロッパも、アメリカほど露骨ではないけれども、いろいろな問題を抱えている。

そういう意味でも、もう一度戻ると、「お金のある人により多く課税をして、所得の再配分をやろう」という政策が、非常に取りにくくなっているのが問題だな、と。

そういうことを考えると、かつて江戸時代はどうだったかを想起する。江戸時代というのは、「お金がある人、力がある人がどんどん伸びて、貧しい人や力のない人は死んでもしょうがない」ということではなかったんだと思います。「助け合い」「分かち合い」の心があった。

儒教倫理とか、あるいは仏教とか、そういうもので「分かち合い」ができていた。具体的には、たとえば上杉鷹山(1751~1822年)。山形の貧しい、財政的に破たんしかかった米沢藩に、若い時に殿様として入っていった上杉鷹山という政治家がいたわけです。当時、殿様は生活面で結構浪費していたのですが、彼の場合は「一汁一菜しか食べない」と。

要するに、「私は殿様だから何をしようと勝手じゃないか」という自由思想ではなくて、むしろ殿様だからこそ、領民の生活の安定のために、今で言う所得の再配分みたいなものを意識的に、倫理的にやったわけです。

じゃあ、日本には上杉鷹山しかいなかったかというと、そんなことはなくて、ほかにもたくさん似た例がある。上杉鷹山は、その中での典型的な例でした。

もうちょっと時代を下ると、二宮尊徳(1787~1856年)。尊徳の場合は、殿様ではなく、むしろその逆だけれども、彼も同じような、倹約と新田開発を旨として、力のない人、弱っている人を、とにかく必死になって助ける。

それに対して、アメリカのように、「力のある人がどんどん力をつけて何が悪いんだ」といって、「自由」や「自由競争」というものに対する、原理主義的な賛成をする所だと、どんどん差が開くと思います。

だって、競争したら、お相撲と同じで、どっちかが勝って、どっちかが負けるわけですから。だから、3,000人いようが、1万人いようが、10億いようが、その中で徹底的に競争していったら、勝者は最後に1人しか残らない。あとは累々たる敗者の山になっていくわけです。

だけど、日本が江戸時代以前に持っていた政治思想や倫理観はそういうものではない。「力の強い人がいくら勝ってもいい」というのではないのですね。

私が、江戸時代の倫理や思想などに関心を持つのは、そういう理由です。だから、江戸時代以前に日本人が持っていた知恵を探り出して、西洋世界が何世紀もかかってつくってきた経済観や倫理の観念を、もう1回見直そうじゃないかと、こういう表(図1)をここに持参しました。


図1:現下の世界に厳しい苦境をもたらした原因

これまでよしとしてきた、自由の尊重。そのこと自体は否定するわけじゃない。民主主義だって非常にありがたい。グローバル化していくのも、科学技術が進展していくのも、まったくその通り。

だけど、それが結果として、この表に挙げたようなものをもたらしてきたんじゃないか、と私は思います。「自由をやるとこうなります」と単純なことを言っているわけじゃないけれども、その結果としての自由競争で、結局、強い者勝ちとなり、それで格差が拡大していく。アメリカで言えば、1%対99%みたいな構図になる。資本主義という今の経済ではピケティ教授が盛んに言っているようなことになる。弱肉強食で、結局、社会全体の活力が失われていく、貧しい人たちばかり、累々たる敗者みたいなものをつくり出していって、社会トータルとしては活力がなく貧しい社会になっていくんじゃないか。

それから、「言論の自由」や「表現の自由」は大事なものだともちろん思うけれども、それを原理主義的にやると、「銃規制をするのはおかしい」「銃を持って何が悪い」「こんなに危ない世の中だから、ますます銃を持つべきだ」という話になっていったりする。「裸になりたい」という人がいたら、「裸だって別にいいじゃないですか」「その人たちが裸で町を歩きたいと言うんだったら、歩かせればいいじゃないですか。自由なんですから」と。

というような議論をしていくと、社会の秩序や安定は、結果的に失われていくんじゃないか。要するに、これまで長いことよしとしてきた、「自由」だとか「民主主義」とか、そういったものをもう1回再構築する必要があるんじゃないかと、最近私は強く考えています。

京都大学の佐伯啓思教授の著書『自由と民主主義をもうやめる(2008年幻冬舎新書)』は非常に面白い。タイトルだけ見ると、反動的な、何たる人かと思うかも知れない。私も大胆なことを言うなと思いました。「自由や民主主義をもうやめよう」と言うんだから。

だけどもちろん、不真面目でも何でもなくて。「自由」がもたらす問題点や、「民主主義」の限界みたいなものを指摘している本です。私は佐伯さんとまったく同じ考えというわけではないけれども、こういうことを言っている人が、少なくても私より先にいたんだなと思います。

(後略)

100人に聞く「経済成長の必要性」(幸せ経済社会研究所)より抜粋
http://ishes.org/project/responsible_econ/enquete/enq100_kato.html

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