ニュースレター

2015年12月12日

 

対極にあるものとのバランスを 経済成長と幸せ

Keywords:  ニュースレター  定常型社会  幸せ 

 

JFS ニュースレター No.159 (2015年11月号)

写真:大串哲史氏
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大串哲史氏は、父親から経営を引き継いだ1店舗の理容室を、12年連続で2桁成長を続けるカットチェーンに成長させた、秀逸な経営者として知られています。これほどの凄腕経営者の経営哲学とはいったいどんなものなのでしょうか。「経済成長とは?」という問いをメインにした、幸せ経済社会研究所によるインタビューをお届けします。


枝廣:経済成長とはどういうことだと思っていますか

大串:私は仏教を少し勉強しているので、その話も交えながら話していきたいと思います。仏教には「思ってはいけないこと」があります。欲はあってもいいんですけど、かきすぎてはいけないということです。

孔子の儒教にも、「とん」という想像上の生き物がいて、何でも食べて、太陽まで食べちゃって、真っ暗闇にしてしまう。それでも欲をかきつづけ、「まだ何かいないか」と探していると、何か動いているものがある。食べてみると、自分の尻尾なのです。最後は自分自身も食べて無になってしまう。ずっと欲を持って追いかけ続けていくと、最後には無になるというのが、儒教が言っている欲の考え方です。

仏教の中には、「ちょうどいいところ」という話もあります。お釈迦様が悟った時に、厳しい修行に倒れ、助けられて、粥をもらいます。そこで、船乗りのお父さんが子どもに琵琶か何かを教えているのを見かけるんです。「弦は引っ張りすぎると切れる。緩めると音が出ない」と。ちょうどいいところでしか音が出ない。それが、非常に大事なのだと。

お釈迦様はそれを聞いて厳しい修行をしすぎても緩すぎてもいけない、ちょうど良いところが大事なのだと思うわけです。"ちょうどいい"ということがわかる人が、ある意味悟った人なのかもしれません。

経済成長とは何かというと、幸せとは何かにつながっていくことと思います。モノも必要だと思うんです。だけど、すべて対極があるじゃないですか? 経済成長によって失っていくものが必ずあります。対極にあるものとバランスを取ったときでないと、せっかくの豊かさも幸せにつながっていかないのかなと思います。

そうすると、対極にあるものは何かをよく考えないといけない。たとえば、心の部分。「モノの反対は何か?」といったとき、「心」の部分の幸せがないといけないのかもしれません。今の日本の物質的な部分が足りているのかは、人それぞれの感覚だと思いますが、仮に足りているとして、その対極と思われる心の部分がすごく幸せなのかどうか。心の部分の「幸せだな」と思う感覚が手に入らないと、いくら豊かな生活をしても満たされない。欲を際限なくかきすぎて「もっと、もっと」となってしまう。

昔の日本人が幸せだったかどうかわかりませんけど、江戸時代など昔の日本に非常に興味があります。建物にしても、心の豊かな人でないと造れないなというものが、いっぱい残っているような気がします。

その心の豊かさや、日本人の和の心はどこから来たのかというのを、いろいろな人に勉強させてもらっています。ある人によると、昔の日本人は、「神道から精神、仏教から教え、儒教から道徳」の3つを取って、「和の心」を身に付けたのだそうです。その3つがきれいにバランスを取って、心のレベルや民度は昔の方が非常に高かったと私は思います。

心が少し成長してくると、成長に合わせたものが生まれてくる。たとえば、グラスは「こういうグラスにしよう」と思わなければ、形にはなりません。必ず心が様々な現象になって、世の中に形として表れてくると思います。

だから今、海外の人たちが日本に来て見たいのは京都だったりするのは、「あの建物が見たい」というのもあるかもしれないけれども、日本人の心の高さや民度の高さというような、日本独特の文化に触れたいからじゃないのかな、と。心の豊かさがないと、海外と似たり寄ったりの建物しか建てられない。今のほうが物質的には豊かかもしれませんが、仮に昔の人の心が貧しかったら、そんな人たちが、本当にあのようなものを造れるかというと、ちょっと「?」が付くかな。

80ちょっとくらいの人生の先輩に教えてもらったことですが、日本人というのは、「正しいか、正しくないか」じゃない、「美しいか、美しくないか」を判断基準にして生きてきた。たとえば、経済成長というのを掲げて、「正しいか、正しくないか」と言うけれども、もともとは「美しいか、美しくないか」。そうだとすると、欲をかきすぎても美しくない。途中で止めて引いたほうが美しいときもあるし、質素にしていたほうが美しいこともある。茶道や華道にしても、すべて「道」を付けて、しぐさまで美しさを競う。作法もそうです。日本独特の考え方じゃないかな。

「美しいか、美しくないか」という判断基準で、さっきの3つ、「道徳」と「教え」と「精神」を混ぜた部分が昔の日本人の心の根底を支えて、昔の建物にその心の形が現れているのではないか。海外の人達は、建物からそれを作った人達の心の高さを受け取って感動してくれていると私は思います。

現在は経済成長に対して、心の部分を高める方法がないと、「もっともっと」となる。そちらも高めていくことが必要なのかなと。

ただ、どうやってそれを測るのかというと、人が幸せだと思ったときは必ず、「安心しているから人口が増えた」など、何かの数字に表れていると思うんです。それを経済成長と一緒に見ていく。1個だけを高めるんじゃなくて、バランスのちょうどいいところを見つけていかないと、無限に経済成長というのはあり得ないと思っているので、どこかで破たんしますよね。

枝廣:今おっしゃった、無限の経済成長はあり得ない、どこかで破たんするというのは、どのあたりからですか。

大串:仏教の考え方で、おなかいっぱい食べると、誰か食べられない人が出てくるから、おなかいっぱい食べちゃいけないんです。地球全体で考えるとき、パイは決まっている。無限に生み出せればそれでもいいです。頭のいい人はそう言うかもしれないけど、はたしてそうなのか、私は疑問に思います。

得るものと心を満たす方法にも、ヒントがあります。「天国と地獄の差」という話です。地獄でも天国でも、でかい釜でうどんを茹でていて、みんな長い箸を持っているんです。天国では、お互いが長い箸で食べさせてあげるんですけど、地獄は取り合いをする。長い箸だから刺したり、たたいたり。

同じ水1杯でも、奪って飲んだ水と、与えてもらった水は違う。たとえば、同じ水一杯でも、相手にあげて相手からも笑顔でもらって飲むと、分け与えるというのが加わるので心も満たされるし味も違うような気がします。

与えるものは与え、もらえるものはもらいながら、心の部分の豊かさもあるような経済成長が可能なら、それが唯一の方法なのかなと思います。奪ってまでというのは、どこかで心が寂しくなって、豊かになっても満たされないというのが永遠に続くような気がします。

枝廣:バランスがとても大事なのですね。 大串さんも経営者で、たくさん社員やその家族がいる。今、「アベノミクスで経済成長」、企業の人たちには喜んでいる人が多いように見えますが、経営者として、経済成長をどのように考えられていますか?

大串:物価が上がれば、お給料を上げていかなければいけないですよね。そのためには、生産性を上げないといけない。生産性って難しくて、あまりやりすぎると現場から笑顔が消えるんです。笑顔がつくれるゆとりも残す、そこも見極めなきゃいけない。生産性だけを上げるというわけにいかない。人はそんなに単純なものではないです。

不思議なもので、会社が利益を追いかけすぎて、生産性をどんどん上げると、リターン率は落ちてくるんです。社員が笑顔で、お客様が喜んでくれてと考えると、生産性を上げながら社員も笑顔でお客様も喜んでくれるという"ちょうといいところ"は実は1点しかないです。そんなに何個もない。

うちの場合、指標がいくつかあり、偏らないように、リターン率と回転率と離職率といった対極にあるトレードオフの指標を必ず見ます。私は経営者として、「生産性を上げましょう」ではなくて、トレードオフの関係にあるものの両方を上げたいんです。

枝廣:それはいったいどうやって?

大串:生産性を上げながら回転率を上げるということ、現場の中には、笑顔でやれている子がいて、なぜやれているのか、と考えると、こういう無駄をやっていないね、と。そうしたら、無駄を省く。良いところは真似をする。それでもやっぱり限界があります。

枝廣:もともとそういう思想で経営をやっていらしたのですか?

大串:そうじゃないですけど、売上を追いかければ人はいなくなるし、リターン率を追いかけていくと生産性が落ちる。どうしたものかという悩みの中で、どれかいいほうを取ろうとしたときに、違うなと思いました。僕らはついどれか1個を取ろうと思うんだけど、実は両方とも大事ということがあるじゃないですか。対極にあるものでも、両方とも必要で大事という事って、いっぱいあると思います。

仏教を教えてもらった時に驚いたのは、「本当の教義は正解がないのが正解」といわれたことです。皆さん、何でも答えを出そうとするけど、「そもそも正解がない」という正解も世の中にはいっぱいある。まさしく「経済成長は?」なんていうのは、正解がない問いだと思います。

ただ、それでも何とかほじり出そうとすれば、経済成長の対極にあるものと、バランスのちょうどいいところを見つけて、それをスッと伸ばせるとき、それが本当の意味での経済成長。対極のものと両方のバランスを取ったら、高めれば高めるほどいいというものではなくて、"ちょうどいいところ"がある。どこかにちょうどいい1点を見つけたらすごいと思います。それは自我を無くし相手と自分の差をなくす努力をしていかないと見つけられません。感情が入りすぎていたら絶対に見つけられないものです。

国全体でもそうかもしれないけど、個人でもみんな感覚が違うので、本当の意味で"ちょうどいいところ"を見つけるのは非常に難しいと思います。ただ、対極にあるものとバランスを取って、見つけようとしていくことは、おそらく美しい議論になると思います。対極にあるものも見ていけば、違うもの、今まで見えていないものも見えてくる。ちょうどいい、調和したものって、美しいじゃないですか。黄金比率って、1対1.6だったりする。なぜかわかりませんが、仏像でも何でも美しいと感じると、きれいな比率になっている。

たぶん、美しいものは1点しかないんじゃないかな。それを見つけていこうとするのであれば、「経済成長とは?」という問いももっと違う議論になるのかもしれないなと思います。

100人に聞く「経済成長の必要性」(幸せ経済社会研究所)より
http://ishes.org/project/responsible_econ/enquete/

(編集:枝廣淳子)

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