ニュースレター

2012年05月29日

 

農地の「所有」から「利用」へ――集落営農方式による農地管理 ~長野県上伊那地域の取組み~

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JFS ニュースレター No.116 (2012年4月号)
シリーズ:地方自治体の取り組み 第38回


日本の農村では近年、農地面積の減少や耕作放棄地の増大、農業従事者の減少や高齢化が急速に進行し、命の産業である農業が崩壊の危機に立たされています。特に、農地面積は、1961年の609万haをピークに一貫して減少を続け、2011年には456万haとピーク時の約7割の水準となっています。一方、耕作放棄地面積は1985年以降増加し、2010年には40万haとなっています。

日本の国土は約3分の2が山林で、農地は12%しかなく、狭小な農地を保有する小規模農家が多いことが特徴です。販売農家一戸当たりの経営耕地面積はおよそ2ha(2011年)で、米国やオーストラリアと比べると規模の差は歴然としています。こうしたなか、農地を集約的に管理し、生産することが、日本の農業の発展における重要な課題となっています。

現在、個人ではなく地域が一体となって農地を守り、農作物を生産する「集落営農体制」が、全国の農村で整備されつつありますが、今回は、すでに30年以上も前からこの方式を取り入れ、独自の農地管理を行ってきた、長野県上伊那地域の取り組みを紹介したいと思います。

上伊那地域の農業

長野県上伊那地域は、西に中央アルプス、東に南アルプスを望む、伊那谷と呼ばれる地域で、標高600m前後の伊那盆地に位置しています。面積は1,348平方キロメートル、人口は約19万人(2011年4月1日現在)で、伊那市、駒ヶ根市、辰野町、箕輪町、飯島町、南箕輪村、中川村、宮田村の2市3町3村が行政を担っています。

JA上伊那

長野県南部に位置する上伊那地域は、内陸性気候のため、冬季は晴天乾燥の日が多く、夏季は昼夜の寒暖差が大きいのが特徴です。伊那谷の中央部には、諏訪湖を水源とする天竜川が北から南へと流れ、川の両岸には、河岸段丘や扇状地が形成されています。上伊那地域では、このような段丘と扇状地を利用した稲作農業が、古くから行われてきました。

また、上伊那地域は養蚕業が盛んで、大正から昭和初期にかけて、日本の製糸業の発展に大きく貢献したことでも知られます。当時は桑畑も多く見られましたが、世界恐慌による生糸価格の暴落とともに製糸業は衰退し、桑畑は次第に姿を消していきます。戦後は、養蚕業に代わり、電気、精密機械などの製造業が盛んになり、農家の労働力は工場労働力へと吸収されていきました。

こうして上伊那地域では、平日は工場に勤め、休日に農業をする兼業農家が大半を占めるようになったのです。さらに、1970年代頃から、国の農業構造改善事業や県のほ場整備事業が実施され、水田が30aごとに基盤整備されたことに加え、大型の農業機械が導入されたことで、水田を効率よく管理できるようになり、土日中心の農作業でも、米を生産することが可能になりました。


宮田方式

しかし、水田の基盤整備と機械化が進むにつれ、日本国内では、米の過剰生産が深刻化し、稲の作付面積を減らして米の供給量を抑える減反政策が、1970年度から毎年実施されるようになりました。1970年代後半に入ると、水田利用再編対策により、農家は大幅な転作への対応を迫られます。しかし、土日しか農作業ができない兼業農家にとって、米作りができないということは、農業をあきらめることを意味していました。中でも、宮田村は、戸当たり耕作面積が70a程度の小規模兼業農家が多く、転作への対応に苦慮していました。

このため、宮田村では、減反政策を農業構造政策の一端と捉え、村と農協、農家が一体となり、村の農業をどう進めるかについて、研究を重ねました。そこで提案されたのが、農地の有効利用と担い手農家への土地利用集積を推進するための共助制度です。これは、国の転作奨励金と農家の拠出する共助金を原資として、土地提供者に稲作所得の80%を補償し、計画的に集団転作を実施する仕組みで、1978年から1980年にかけて行われました。

そして、1981年には、「土地は自分のものだが、土はみんなで生かして使う」を基本理念に、一集落一農場を目標とした全村的土地利用計画を策定します。これは、作物団地化や担い手への土地利用集積など村全体の農地を有効活用するための計画で、全農家が参加する話し合いにより、村長が最終的に決定しました。このとき、農村に住む者の責任として、農家・農村・農業を守るため担い手を育成し、住みよい農村づくりを進めることを、村全体で確認したといいます。

さらに、この計画を具体化するため、村条例を制定し、「宮田村農地利用委員会」を設置しました。「農地利用委員会」は、土地利用計画に基づいて、農地の受委託や地代の受払いを行う組織で、村内7集落の地区会長、村議会代表、農業委員会代表、農協代表、学識経験者などから構成されました。「地代」とは、共助制度を発展させたもので、農地を貸す時は高く、農地を借りる時は安く設定し、農地の流動化を促す仕組みとしました。

一方で、宮田村では、農機の共同利用や農作業受託を行う「集団耕作組合」が集落ごとに結成され、機械化一貫体系による稲作の効率化が進められてきました。このように、「農地利用委員会」と「集団耕作組合」という二つの組織を位置付け、農地の所有と利用を分離し、地域農業総体の生産力を高めるという考え方は、自作農主義が常識であった当時の農業界に大きなカルチャーショックを与え、「宮田方式」として大きな注目を集めました。

宮田村 宮田方式の歴史


農地法の改正

農地の所有は農家個人で、農地の利用方法は農地利用委員会が決定するという宮田方式は、2009年に改正された新農地法を先取りする仕組みであったと考えられています。改正農地法では、耕作者自身が農地を所有することを原則としていた農地制度を根幹から見直し、農地を適正かつ効率的に利用することを目的に、農地の貸借や企業の参入が原則自由化されることとなりました。

農地法改正の背景には、日本の農業が直面している数多くの課題があることは言うまでもありません。法律にとらわれず、自主的な農地管理を進めてきた宮田村では、農地面積に対する耕作放棄地比率が全国平均の4分の1程度と極めて少なく、耕作放棄地対策の先進事例として高く評価されています。

もっとも、宮田方式は、兼業農家が農地を維持する仕組みとしては機能するが、担い手を育成する仕組みとしては不十分という指摘もされてきました。現在、宮田村では、農地利用委員会と集団耕作組合を統合して営農組合を設立し、この組織が、農地の利用調整と農作業の受委託を行っていますが、担い手不足が深刻な問題となっており、農業生産法人などの設立が急がれているところです。

宮田村 宮田の農業と『宮田方式』


飯島方式

宮田村の南側に位置する飯島町では、宮田方式とは違った形の集落営農方式を確立しています。宮田村では、行政のイニシアティブで農地管理が行われてきましたが、飯島町では、全戸参加の「営農センター」が全町的な組織として位置付けられ、農家が主体的に地域農業の再編に関与している点が特徴的です。営農センターの下には4つの地区営農組合が置かれ、この地区営農組合が農地の借り手・貸し手の意向を掘り起こし、それに基づいて農用地利用計画を作成し、農協を介して土地利用調整を行っています。

飯島町では特に担い手の育成に重点を置き、各地区営農組合に一つずつオペレーター型の法人を設立しています。2005年に設立された株式会社田切農産は、農地を借り受けて経営を行い、地区内農家の機械作業を全面的に受託する傍ら、直売所経営、6次産業化の取り組みなど、幅広い経営実績が評価され、「第14回 全国農業担い手サミットin長野」において、集落営農部門の最高賞である農林水産大臣賞を受賞しました。

飯島町 営農センター


農地を守ろうとするコンセンサス

長野県上伊那地域における農地管理の取り組みは、宮田方式から出発し、その改良型である飯島方式へと発展し、近隣の伊那市、南箕輪村、箕輪町、駒ヶ根市などにも普及しています。こうした集落営農の考え方は、農地という地域資源を、農村社会全体で守らなければならないという、上伊那地域の人々の強い責任感から生まれたように思います。

農業の大規模化・効率化が必要との議論もありますが、上伊那地域における独自の農地管理システムは、兼業農家が多い土地柄だからこそ、生み出された知恵ともいえます。日本の国土は多様性に富んでおり、農業への関わりも地域によって異なります。それぞれの土地の先人たちが育んできた農地を、社会全体で守ろうというコンセンサスの下に、地域の特性に合った農業政策を展開していくことが重要であると思われます。

参考図書:農業法研究45号 改正農地法の地域的運用(農山漁村文化協会、2010年)

(スタッフライター 角田一恵)

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