ニュースレター

2009年02月23日

 

地球環境問題 - 哲学からのアプローチ

Keywords:  ニュースレター 

 

JFS ニュースレター No.74 (2008年10月号)

梅原猛氏は、日本を代表する哲学者のひとりです。1925年3月20日に生まれ、京都大学文学部哲学科を卒業。若い頃は西洋哲学を研究し、その後、日本仏教を中心に置いて日本文化の深層を究明してきました。現在は、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター顧問を務め、文化勲章受章者でもあります。

環境問題についても積極的に発言をされている梅原氏のお考えを、ぜひ、世界の方々にもお伝えしたいと思いました。ご本人の了解を得て、9月に大阪で行われた氏の講演での発言の記録をお伝えします(この記録は、講演を聞きながらのメモをもとに私が書いたものであり、その責任は私に帰します)。

==================

今年も暑い夏でしたね。北極の氷も南極の氷も溶け、シロクマも生存の危機に瀕するなど、地球環境の危機的状況が決定的に明らかになってきました。環境問題はかねてから語られていましたが、いまや人類は危機に陥っていると言わざるを得ません。

レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や、アル・ゴアの『不都合な真実』などの警告の書が、環境問題を訴えるために出されてきましたが、人類がどれだけ真剣に取り組んできたかは問題です。

全人類にとっての問題ですから、一致協力して当たらなければ、存続も危うい状況です。このままでは危ないと言われつつ、人類はまだその対策を講じていません。日本も積極的とは言えず、真剣な態度は見られません。

この様子は、法華経で言う「火宅」を思い出させます。「火宅」とは、「火がぼうぼうと燃えている家の中で子どもたちは、そんなことも知らず遊び戯れている」という比喩ですが、人類はまるでその子どもたちのように、火事も知らずに火宅の中で遊び戯れているかのようです。

レイチェル・カーソンもアル・ゴアも、環境問題に対する警告は発しましたが、そもそも環境問題の根源は何かについては触れていないように思います。問題の症状ではなく、根源から正すしか、解決の方法はないのです。

問題の根源は近代科学技術文明であると、私は考えています。それ以前の文明には、環境問題は存在していませんでした。つまり、近代西洋文明が人類に大きな恩恵を与えたことは事実なのですが、同時に環境を破壊してきたのです。

人間は近代西洋文明の中で、人間に対峙する自然を支配し、豊かで便利な文明をつくってきました。自然はわれわれを生み出した母であるのに、それをあたかも奴隷のように酷使してきたのです。

科学技術そのものが悪いわけではありません。科学技術を推し進めてきた近代西洋哲学が間違っていたと考えます。

デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言いました。つまり、一切を疑って、確実なものを考えようとしたとき、考えを疑っている理性的な我を世界の中心に置いたのです。この中で、我は我以外の自然世界と対立するものであり、我の外にある自然世界は、数式で表されるものだとされました。

このデカルトの哲学は間違っているのではないかと、私は最近考えるようになっています。我と呼ばれる人間が考えているのは、実際には1日のうちほんの少しの時間しかありません。そうではなく、食べること、寝ること、子孫を残すこと――これが人間なのではないでしょうか。

「考える人間」だけを中心に置くのは間違っている、と思うのです。アメーバーから始まる生命の大きな流れの中にこそ、我があるのです。しかし近代哲学は、「人間の理性と無機的な自然」という世界を描き出したのです。

デカルトだけではありません。人間の理性を中心に置いた哲学者をたどっていくと、プラトンにたどり着くでしょう。プラトンは、「理性ある人間と自然との対峙」を考えていました。ハイデッガーも、「支配する意思による理性」が西洋の運命であると説いています。

ソクラテス以前のイオニア哲学では、ターレスらが、万物は水である、火である、空気であると考えていました。しかし、「近代的な西洋哲学は間違っているのではないか」と考えた私は、40歳のころ、日本の研究に転向しました。そこに、西洋哲学の誤謬を正すものがあるのではないかと考えたからです。

日本の縄文以来の中心思想は、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉で表されます。これはつまり、「山や川も植物や鉱物も、すべて生きていて仏になれる」という、日本の伝統的な思想です。このような考え方が世界的に重要になりつつあるのではないでしょうか。生きとし生けるあらゆるものと、人間は共存しなくてはならないのですから。

今年の1月から2月にかけて、ギリシャ・イスラエル文明の源であるエジプトに旅しました。エジプトの自然哲学の中心には「ラーの神」がいます。太陽の神です。日本の思想である草木国土が成仏できるのも太陽のおかげであり、日本にも、天照大御神という太陽の神がいます。この旅から「太陽の神に帰らなくてはならない」という思いを強くしました。

ギリシャやイスラエルは農耕国家ではないために大地から離れていったと言えるでしょう。そこでのアポロの神(太陽神)は、予告の神、哲学の神となりました。私たち人間は、もう一度、太陽の神に帰らなくてはなりません。

「哲学はまだ天動説をとっている」――私はそう考えています。つまり、人間を中心にすべてが回っていると考えているのです。そうではなく地動説、つまり太陽や自然を中心に置く哲学に戻していかなくてはならないと考えています。

==================

(枝廣淳子)

English  

 


 

このページの先頭へ