ニュースレター

2013年09月10日

 

20年ごとに建て替えることで永久を保つ - 伊勢神宮の遷宮

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JFS ニュースレター No.132 (2013年8月号)

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Photo by Japan for Sustainability


今年、伊勢神宮は20年に一度の式年遷宮を迎えています。国を挙げての大事な行事です。「建て替えつづけることで永久の建築物にする」という発想は、世界にも類を見ないものです。西洋型の発想で強いものを造るなら、堅牢な石やレンガ、コンクリートを使うことでしょう。でも伊勢神宮では、材木を組んだだけのお宮を建て替え、建て替えすることで、永遠をつくり出しているのです。同時に、宮大工やさまざまな手工業者の技(御神宝や御装束など)もそのなかで伝承されます。

遷宮には、お木曳きとお白石持ちという、地域住民が参加する行事があります。この貴重な機会に特別に参加させていただくことができました。

最初に、伊勢神宮に取材をさせてもらって書いたJFS ニュースレターNo.26(2004年10月号)から、伊勢神宮と遷宮についてご紹介しましょう。

三重県伊勢市にある伊勢神宮は、昔から「神宮」といえば伊勢神宮のことをいい、古くから国民に尊ばれている神宮です。皇室の御祖先の守り神として仰ぐ天照大御神をお祭りする内宮と、衣・食・住・広く産業の守り神として崇敬される豊受大御神をお祭りする外宮があります。

神宮の社殿は、唯一神明造りという日本最古の建築様式です。檜の素木を用いる高床式で、茅葺き屋根を両端の千木が支える構造で、柱は直接地に埋める掘立式です。


この伊勢神宮では、1300年のあいだ、20年に一度、社殿や神宝類、ご装束類のすべてを一新して大御神のお遷りを仰ぐ式年遷宮がおこなわれています。これは日本の文化のルーツを伝え、伝統技術を保存継承する上でも大きな役割を果たしています。

20年毎に遷宮しつづけるという仕組みは、日本でも例がありません。「20年」という周期は、最初に遷宮を始めた天武天皇が定めたため、とされていますが、20年ごとの遷宮によって、技術や匠の技が脈々と伝えつづけられています。

伊勢神宮の神殿は、弥生時代の穀物倉庫の形を模して造られています。かつて穀物の倉庫には、翌年播くための籾種や飢饉用の備蓄が入れられていたことでしょう。翌年植え付ける籾種がなくなったり、飢饉用の備蓄がなくなったら大変なことです。穀物倉庫は、国民のいのちを守る役割を担っていたのです。

穀物倉庫は、20~30年ごとに建て替える必要がありました。建物は十数本の直埋めの柱と萱の屋根でできています。梅雨時期に多くの雨が降ると、萱の屋根が重くなります。重くなった萱の屋根が壁板を押しつけることで、板の間のすき間がなくなって湿気が入らなくなります。夏は逆に屋根が軽くなり、空気が通るので乾燥します。このように屋根も柱もすべて一つのいのちのように連動し、中の籾種を湿気や虫からしっかりと守るしくみなのです。

とても重くなる萱の屋根を支えるには、柱を直埋めするしかありませんでした。しかし、地面に埋めた部分や萱の屋根が腐ってきます。したがって、20~30年ごとの建て替えが必要でした。しかし、使えなくなってから建て替えるのでは、いのちを守ることができません。ですから、定期的に建て替えるしきたりができたのでしょう。その記憶が、いのちを守る建物の象徴でもある伊勢神宮の遷宮につながっているのです。

遷宮のために神宮の神殿には隣接する二つの用地があり、交互に一方の敷地に神殿が建てられます。明治時代以前まで、新しい神殿が建てられた後、古殿は放置され、自然倒壊するのを待っていました。新しい神殿に大御神が祀られているその隣で、古殿が朽ちていくのです。

遷宮には、約1万本もの造営用材が必要となります。20年ごとに1万本以上もの檜をどのように確保してきたのでしょうか?

伊勢神宮は、5,500ヘクタールもの広大な敷地を持っています。うち90%以上が山林です。この伊勢神宮の森づくりは、反省の上に進められてきたといいます。かつては、御杣山から遷宮用の木材が切り出されていました。また、江戸時代には現在と同じく年間700~900万人がお参りをしていましたので、門前町に二、三泊する参拝者のための薪をまかなうためにも、山が切り開かれ、木がなくなってきました。

江戸時代には、幕府が木曽の尾張藩の森林を遷宮のための御用林としました。江戸時代の終わりに尾張藩の御用林は、皇室財産となりましたが、第二次世界大戦後、皇室財産だった神宮備林は国有林になりました。伊勢神宮の遷宮用に優先的に木材を購入することができますが、それでも「専用」ではなく、金銭的にもかなりの負担となります。

このように、遷宮のための用材の確保を国に依存できなくなる前に、伊勢神宮では「遷宮用の森林は自分たちで持っているべきだ」という認識が行動につながっていました。今から90年ほど前の大正時代に、内務省の一部分であった神宮司庁が、神宮森林経営計画を立て、植林を始めたのです。当時の名目上の目的は、景観の保持及び五十鈴川の水源地涵養でしたが、山の南面に檜も植え始めました。

この森林経営計画は200年計画でした。200年後には、半永久的に遷宮用材をすべて自分たちの森から供給できる体制づくりをめざしたのです。そのおかげで、今回の遷宮では必要な用材の4分の1を、久々に宮域林からまかなうことができたとのこと。20年ごとにその割合は増えていくでしょう。先祖たちが計画をした200年よりも前に、100%まかなえる日が来そうだといいます。

遷宮はとても大きな行事なので、8年かけて準備をします。木材の準備には4年をかけます。伐採後2年間貯木池に沈めます。水中乾燥というそうですが、木の余分な油を抜くためです。その後1年間、野ざらしにし、四季折々の厳しい自然条件に木を慣らします。そして1年間で製材をし、和紙をかけて遷宮の時を待ちます。

このように、長い時間をかけて木材の準備をしますから、割れないし反らないしっかりした木材になります。「いのちを守る」という遷宮の主意にかなうよう、準備されるのです。では、役割の終わった古殿の木材はどうなるのでしょうか?

内宮と外宮の神殿には、建物を両側でがっちりと支えている棟持柱が4本あります。長さ11メートルほどのこの柱は、遷宮後は宇治橋の鳥居として、20年間伊勢神宮を守ります。さらに20年たつと、桑名の七里の渡しと関の追分けの鳥居として、さらに長く地域の人たちを守る役割を担います。

棟持柱以外の部分は、全国の神社の建て替えの申請に従って分けられます。一片たりとも無駄にしないという精神で、遷宮ごとに木材などを地方の神社にお配りすることで、伊勢神宮と地方の神社とのつながりもしっかりと保たれています。

日本は、弥生時代に米作が始まってから国家ができました。米の備蓄は国民のいのちであり、国家の基本である――伊勢神宮に受け継がれている精神です。この神宮を20年ごとに建て替えることで新しい世代に大切ないのちと匠の技を伝えつづけています。伊勢神宮は、地域の人々や日本各地の神社とのつながりの中、そして千何百年来の過去と永久の未来の網目の中に凛と立ち、私たちの精神のよりどころとなっているのです。


お宮の建て替えが町ぐるみの行事に

このように、遷宮は何年もかけて準備します。建て替えの木材となるヒノキは、山で伐採されたあと、外宮には伊勢の宮川から、内宮には五十鈴川から陸揚げされます。陸揚げした材木を神宮まで運び込む「お木曳き」行事は、遷宮の8年前に行われます。今回は2006年と2007年の5~6月にかけて、伊勢の80を超える町がそれぞれの町で団を組み、お木曳きを行いました。

また、遷宮の年にあたる2013年には「お白石持」が行われました。お白石持行事は、伊勢市民が神殿の庭に敷きつめる白い石を清冽な宮川から拾ってきて、洗って保管し、お清めをしてから大きな大八車に乗せて運んでくるものです。町内会ごとに日にちが割り当てられ、にぎやかな行事となります。


「遊び」が強さになる

お木曳きとお白石持ち行事に、町内会の方々と一緒に参加させてもらいました。お木曳きのときには木材が、お白石持ちのときには白い石が積まれ、きれいに飾り付けされた曳き車には、長い綱が2本ついています。そのそれぞれを数百人もの地元の人たちが手に手に持って曳いていきます。お年寄りもいれば若者もいます。子どもたちも参加しています。町中の人たちが参加しているのです。

2本の綱の間には、ハッピ姿もカッコいい若い衆が、木遣り歌で調子をつけながら、みんなを先導してくれます。子どもの木遣り隊もいます。「みんなで粛々と曳いていく」というようなものではありません。笑いがいっぱいで、そして、効率が悪い。効率の悪さを楽しんでいる。しょっちゅう立ち止まっては「遊び」が入ります。

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行進が止まると、みんなで綱を上下に揺すり始めます。そうして、2本の綱のこちら側とあちら側から真ん中目がけて走り寄り、綱引きならぬ「綱押し」をするのです。真ん中の若い衆はぺっちゃんこになりながら、綱押しを扇動しています。

あちらへぐぐぐぐっと押していくと、今度はあちらからぐぐぐっと押される。そんな行ったり来たりを何度か繰り返すと、綱はまた2本に分かれ、木遣り歌とともに進み始めます。でも、少し進んだかと思うと、またすぐにその綱押しが始まります。

また、少し進んだかと思うと、通り道にある町内会が「接待」をしてくれる場所があって、一休みです。冷たいお茶が振る舞われ、みんな思い思いにお喋りをしながらゆっくりと休憩です。それほど遠くない距離なのですが、そうやって何時間もかけて、神宮まで運んで奉献するのです。

参加させていただいて強く感じたのは、一見、時間のむだのように思われる「遊び」があちこちに組み込まれているということ、そして、それも地域の絆やしなやかな強さをつくり出しているということでした。

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町ごとの奉献車を曳いて町中の人が参加するお祭りは、町に住む者の帰属感や誇り、連帯感を高めてくれることでしょう。みんなで綱を引いたり押したりして笑いが絶えません。通り道にある町内会の「接待」は、違う町の若者たちが出会う場にもなっているようです。あちこちで車座になってお喋りを楽しんでいました。

そして、20年に一度の行事ですから、20年後の担い手を育て、引き継いでいくのも大事なことです。前回はきっと子どもとして参加したであろう若者たちに、3回目、4回目の参加となる年配者から「今度はおまえらに任せるぞ」という声がかかります。こうして、伝統や文化、技術が引き継がれていくのでしょう。

今回特別に参加させていただいた二俣町奉献団では、陸曳の際に歌う団の道歌が60年ぶりに復活するといううれしい日にもなりました。道歌は第59回式年遷宮以来、歌える人がいなくなって途絶えていたそうです。幸い、団長の大川好亮さんが8歳の時に59回遷宮で歌った道歌の節を覚えていたため、夫人とともに楽譜を作ることができたとのこと。遷宮がこうして伝統や人々の幸せの基盤を守り続けていく"装置"にもなっていることを感じたのでした。

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(枝廣淳子)

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