ニュースレター

2003年04月01日

 

日本の江戸時代は循環型社会だった

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JFS ニュースレター No.7 (2003年3月号)

日本史では、徳川家康が征夷大将軍になった1603年から大政奉還の1867年までの265年間を江戸時代といいます。「江戸」というのは、東京の旧名で、当時、権力の中枢である幕府が江戸に置かれていたため、この時代を「江戸時代」と呼んでいます。

この約250年間、日本は外国から侵攻されることもなく、海外とのやりとりを絶って鎖国をしていました。また、国内でもほとんど戦争のなかった平和な時代でした。そのため、この時代には、日本の経済や文化が独自の発展を遂げました。

当時の日本の総人口はどれほどだったでしょうか? 1720年頃に最初の全国統計がとられましたが、幕府が開かれてから幕末まで、ほぼ3,000万人ぐらいで、ほとんど変動がなかったといわれます。2世紀半ものあいだ、人口が安定していた国なのです。

江戸の人口は、約100-125万人と推定されており、当時、世界最大の都市でした。当時のロンドンの人口は約86万人(1801年)、パリが約67万人(1802年)です。

現在の日本は、エネルギーの78%、食糧(カロリーベース)の60%、木材の82%を海外からの輸入に頼っていますが、江戸時代の約250年間は鎖国をしていましたから、海外からは何も輸入せず、すべてを国内のエネルギーや資源でまかなっていました。

ところが、日本には石油などの化石燃料はほとんどありません。江戸時代の後期には塩を煮詰めるときに石炭を使っていたという記録がありますが、その量は微々たるものです。つまり、化石燃料をほとんど使わずに、戦争のない時代を作り、素晴らしい文化を発展させた時代だったのです。

日本ではここ数年、「江戸時代は、人口も安定し、国内だけの物質収支で成り立っていた循環型の持続可能な社会だった」という認識が広がり、江戸時代の社会のあり方を学んだり、その知恵を現代に活かそう、という動きが出てきています。

この分野に詳しい作家の石川英輔氏の『江戸時代はリサイクル社会』などを参考に、なぜ250年にわたる自給自足の循環型社会が可能だったのか、今月は江戸時代のリユース、リサイクルの様子を、来月はエネルギーに注目して「植物国家」だった日本の様子をご紹介します。

江戸時代は、現在のように「ゴミ問題」を解決するためにリサイクルをしていたわけではありません。もともとモノが少なく、何であっても(灰のように現在は厄介者扱いされるものでさえ)貴重な資源でした。新しいモノは高価で簡単には手に入らなかったので、ほとんどすべてのものがゴミにならずに、使われ続けていたのです。

そのために、江戸時代には専門のリユース、リサイクル業者(リサイクルという言葉はありませんでしたが!)がたくさんいました。たとえば......

*鋳掛け(金属製品の修理専門業者)
古い鍋や釜などの底に穴が開いて使えなくなったものを修理して、使えるようにしてくれます。炭火にふいごで空気を吹き付けて高温にし、穴の開いた部分に別の金属板を貼り付けたり、折れた部分を溶接する特殊な技術を持っていました。

*瀬戸物の焼き接ぎ
割れてしまった陶磁器を、白玉粉で接着してから加熱する焼き接ぎで修理してくれる専門職人。

*箍屋(たがや)
40-50年ほどまえまでは、液体を入れる容器は木製の桶や樽が普通でした。桶や樽は、木の板を竹で作った輪で円筒形に堅く締めて作ってあり、この箍が古くなって折れたりゆるんだりすると、新しい竹で締め直してくれました。

その他にも、提灯の貼り替え、錠前直し、朱肉の詰め替え、下駄の歯入れ、鏡研ぎ、臼の目立てなど、さまざまな修理専門業者がいて、どんなものも丁寧に修理しながら、長く使うことがあたりまえ、という時代を支えていました。

また、回収専門の業者も数多くいました。たとえば、

*紙屑買い
不要になった帳簿などの製紙品を買い取り、仕分けをし、漉き返す業者に販売していました。当時の和紙は、10mm以上もの長い植物繊維でできていたので、漉き返しがしやすく、各種の古紙を集めてブレンドし、ちり紙から印刷用紙まで、さまざまな再生紙に漉き返すことができたそうです。

*紙屑拾い
古紙を集める専門業者ですが、買い入れるだけの資金を持っていないので、町中を歩き回っては落ちている紙を拾い、古紙問屋へ持っていって日銭を稼いでいました。

*古着屋
江戸時代までは、布はすべて手織だったので高級な貴重品でした。江戸の町には4,000軒もの古着商がいたともいわれています。

*古傘骨買い
当時の傘は竹の骨に紙を貼り付けたものでした。古傘買いが買い集めた古傘は、専門の古傘問屋が集めて油紙をはがして洗い、糸を繕ってから傘貼りの下請けに出しました。油紙も丁寧にはがし、特殊な包装用に売っていたそうです。

*古樽買い
液体容器として主に使われていた樽の中身がなくなると、古樽を専門に買い集める業者が買って、空樽専門の問屋へ持っていきました。いまでも日本では、ビールびんや清酒の一升びんはしっかりした民間の回収ルートがあって、高い回収・リサイクル率を誇っていますが、その仕事をしているびん商の祖先は、この空樽問屋だった人も多いそうです。

*取っけえべえ
「取っけえべえ、取っけえべえ」と歌いながら歩く子ども相手の行商人で、子どもが遊びながら拾い集めた古釘などを簡単なオモチャや飴などと交換し、古い金属製品などを集めました。

ほかにもたくさんの回収・再生業者が、ものを捨てることなく大切にし、必要があればものの姿を変えて(リサイクル)最後まで使い切る生活を支えていました。

ちょっとびっくりするようなリサイクル業者もありました。たとえば、

*ロウソクの流れ買い
ロウソクは貴重品でしたから、火を灯したロウソクのしずくを買い集める業者がいました。

*灰買い
薪などを燃やすと灰が出ます。この灰を買い集め、肥料として農村に売っていたのが灰買いです。民家では、箱などに灰をためておき、湯屋や大店など大量の灰が出るところでは灰小屋に灰をためて、灰買いに売りました。

東京農大の小泉武夫教授の『灰の文化史』という本には、世界中に灰を利用した文化はあるが、都市の中に灰を買いに来る商人がいて、実際に循環させたのは、自分の調べる限り日本だけだ、と書かれているとか。

*肥汲み
人間の排出物(下肥)は、1955年頃までの日本の農村では、もっとも重要な肥料でした。下水道のなかったころのヨーロッパでは、排泄物は窓から捨てており、衛生状態が非常に悪かったために、伝染病のペストが繰り返し大流行したほどですが、日本では、貴重な資源として扱われていたのでした。

農家では、下肥を肥料として使うため、契約した地域や家に定期的に汲み取りに行きました。農家がお金を払うか、農作物の現物と交換する形で買い取っていたのです。流通経路が整うにつれ、下肥問屋や下肥の小売商も出現しました。

何人もの店子を抱える大家にとっては、その下肥はよい収入源になったそうで、大家と店子が排泄物の所有権をめぐって争うこともあったとか。また、上等な宇治茶を育てるには、この地区の下肥がよい、と特定して使っていたそうです。

排泄物まで?と驚かれるかもしれません。究極のリサイクルですが、近代農芸化学の父といわれるドイツの大化学者リービヒは、下肥使用について、「土地をいつまでも肥えたままに保ち、生産性を人口の増加に比例して高めるのに適した比類のない優れた農法」と激賞しました。江戸の町を初めて見た西洋人は「こんなにきれいな都市はない」と驚いたそうです。

農作物を作る農家は肥料を使い、肥料を作るのはその農作物を食べる消費者だったのですね。現在の「アナタ、肥料をどこかから買ってきて作る人。ワタシ、食べて下水に流す人」からは考えられない、消費と生産が持ちつ持たれつの関係だったからこそ、究極のリサイクルの環が回っていたのです。

もうひとつ、リサイクルだけではなく、ものを大事にそのままの形で何度も使うことも江戸時代ではあたりまえにおこなわれていました。江戸時代には寺子屋という庶民の子どものための学校がありましたが、ここで使う教科書は子どもの所有物ではなく、学校の備品でした。1冊の算術の教科書が109年間使われていた記録が残っています。

もちろん、このような形では、紙屋も印刷屋も製版屋も出版社も運送屋も儲かりませんから困ります。次々と新しいものを買ってくれないと、経済が発展しません。幕府が雇う大工の賃金リストを調べると、賃金が2倍になるのに200年かかっているので、ここから計算すると、経済成長率は年に0.3%ぐらいだそうです。

現在の経済成長率で測れば、江戸時代は、経済はあまり成長しなかった時代かもしれません。でも、ものを大切にすると停滞してしまう現在の経済社会システムのほうが正しいのでしょうか? 

江戸時代の日本は、利便性を追求した大量生産・大量消費社会ではなく、限られた資源を最大限に活かして経済を維持し、文化を発展させた循環型社会の一つのモデルといえましょう。

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