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ブータンが目指すGNH(国民総幸福量)

ダイワJFS・青少年サステナビリティ・カレッジ 第3期・第12回講義録

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辻信一氏
文化人類学者、環境運動家

明治学院大学国際学部教授。「100万人のキャンドルナイト」呼びかけ人代表。NGOナマケモノ倶楽部の世話人を務めるほか、「スロ-」や「GNH」というコンセプトを軸に環境文化運動を進める。ナマケモノ倶楽部を母体として生まれたビジネスにも取り組む。著書に『スロー・イズ・ビューティフル』『GNH―もうひとつの"豊かさ"へ~10人の提案』など。

◆講義録

GNH(Gross National Happiness=国民総幸福)という考え方がある。この言葉の生まれたブータンからのヒントを元に、私たちにとってGNHがどんな意味を持つのか考えてみたい。


私たちは大きな変化を生きている

まず、GNHの背景から見てみよう。600万年とも言われる人類史上、さまざまな大きな変化が起こってきた。森林からサバンナへ出たり、立ち上がって二足歩行をしたり、石器をつくったり、火を使うようになったり。1万2000年ぐらい前には、農的な営みが始まるという大事件があり、その後、農耕や牧畜は、何千年という時間をかけて、徐々に世界に広まっていった。

そして5000年くらい前に、今日私たちが「文明」と呼ぶものが生まれる。その頃には地球上のほとんどの場所に人類が到達し、いろいろな場所で「文化」を形成して暮らすようになっていた。1億人ほどからなる人間の世界は、いわば文化の海だ。ひとつの谷間ごとに文化があり、山を越えれば言語も違い世界観も違うという、まれに見る多様性を人間はつくり出していた。あるとき、その文化の海の中にひときわ異質な文化が現れる。まるで海底火山のように。それが文明だ。その後、ボコッボコッと、あちこちに文明が生まれる。

私たちはともすれば忘れがちだが、すべての文明はやがて滅びていった。現在のこの私たちの文明だけが滅びないということが、果たしてあるだろうか? 現代文明だけが不滅だというのなら、その根拠は何だろう?

この10年、20年と、世界中の多くの人々の意識に大きな変化が起きている。これまで常識だと考えられていたことが揺らぎ、当然だと思われていたことが疑われるようになった。持続可能性という言葉が現われた。それは要するに、今までのやり方では持続不可能らしい、という意識が高まったということだ。そういう「すごい」時代に私たちは生きている。2008年夏のリーマンショック以後の事態を、「100年に一度の危機だ」と言った人がいたが、それはあまりに楽観的すぎるだろう。もしかしたら、1000年、2000年に一度の規模の大変化が、今、起こりつつあるのかもしれない。

2000~2500年ほど前、老子、ブッダ、キリストなどといった、人類史上で最も明晰な頭脳を持った人たちが現れている。彼らのメッセージに共通しているのは、文明、特にその中心にある「豊かさ」という概念に対する警告だった。


幻想の上に成り立つ文明

経済学者ケインズの計算によれば、産業革命までの4000年間で、人類は平均100%の経済成長を果たしたという。これを単純に割り算すれば40年間で1%だ。一生のうち1~2%とは、あまりにも遅く、おそらく知覚できない程度の変化だろう。つまり、その時代にはまだ「経済成長」という概念は存在しなかった。

それが、産業革命以降、平均すると数十年間で100%の経済成長が見られるようになった。40年で100%とすると、産業革命以前と比べて100倍加速したことになる。

しかし、実際にはもっとすごい。20世紀になると経済は加速度的に成長したし、特に私たちは経済成長を最も速く遂げたことで知られる国に住んでいる。私が幼いころの高度経済成長とは、1年に10%以上という速度だ。産業革命以前と比べて、私たちは成長速度が何百倍も加速した時代の子供たちなのだ。

経済は成長するものだという考えを、私たちはまるで宿命のように、あるいは物理法則のように受け入れてきた。また、ほとんどすべての社会が経済成長を遂げ、「豊か」になることを目的とするようになった。世界中に「豊かさ幻想」が広がった、と言ってもいい。

さてもう一度、現代文明は、この5000年間に興っては滅びていったほかの文明とどこがちがうのか、と問うてみよう。まず、量的な違いは明らかだ。経済成長のスピードは指数曲線を描いて加速しているし、また地理的にも世界全体を覆う(グローバル化)にいたった。かつてのように、もはや伝統文化にも一定の地域にも根を持たない。

では、これほどの文明の巨大化がどうして可能になったのか。それは、産業革命の上につくられた現代文明と、滅んでいったかつての文明との違いはどこにあるのか、という問いと重なる。いちばんの違いは化石燃料の存在ではないか。

化石燃料が一般的になる以前の人類は、バイオマスのエネルギーで生きていた。現代のバイオ燃料の効率は1.34倍、つまり、1のエネルギーを投入して1.34の出力を得ることができるそうだ。これと比べて、石油ならその100倍ぐらいのエネルギーを簡単に得ることができる。この単純な比較からも、バイオマス・エネルギーの時代から化石燃料エネルギーの時代への変化の大きさがうかがえる。いわば、人類はこの100年間、かつての100倍のエネルギーを前提として、その上にすべてを築いてきたわけだ。経済、政治、法制度、国際関係、軍事、そして人間関係にいたるすべてが、化石燃料による100倍の力が永久に続くことを前提として成り立っている。

しかし、それは、言い換えれば、私たちの住むこの世の中が幻想の上に成り立っている、ということだ。化石燃料は永遠には続かないからだ。世界中で今、「ピークオイル」が盛んに議論されている。世界の石油埋蔵量の半分は既に使ってしまい、その価格がこの先急速に上がっていくことが予想される。化石燃料争奪戦は、今もアフガニスタンやイラクで続いているし、これからも一層激しさを増すのではないか。

もちろん、地球温暖化や気候変動の問題もある。戦争と地球温暖化。幻想の上に世界を築いてきたことの結果が今、私たちの上に重くのしかかってきている。


豊かさは測れるのか?

豊かさは測ることができる―これが経済学の考え方だ。その一番代表的な指標がGDPやGNPだ。PとはProducts、つまりモノやサービスだが、GDPやGNPとは、それをやりとりするお金の量であり、それが増えるにつれて社会の豊かさが増大すると考えられてきた。おまけに、GDPやGNPが上がり、豊かさが増せば、それにつれて社会の幸せ度も増すという思い込みが生まれた。「豊かさ」という概念の中に、「幸せ」が組み込まれてしまったわけだ。

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写真撮影:辻信一(ナマケモノ倶楽部世話人)


豊かさと幸せを同一視するこの考え方こそが間違いの元だと、2000~2500年前の哲学者たちから、マハトマ・ガンジーやダライ・ラマのような現代の聖人たちまで、口をそろえて言ってきた。

1968年のアメリカ大統領選のキャンペーン・スピーチで、ロバート・ケネディは、世界一であるアメリカのGNPの中に何が含まれ、何が含まれていないか考えてみようと呼びかけていた。例えば、戦争で使われる武器や爆弾はGNPに計算されるが、子供たちの健康や人々の思いやりは勘定されない。「つまり、GNPの中から、私たちの生きがいがスッポリと抜け落ちている」と。

そして、1970年代に、世界でも最もGNPの低い国のひとつだったヒマラヤの小国、ブータンの国王が言い出したのが「GNH(国民総幸福)」だ。亡くなった父親を継いで、弱冠16歳で即位した新国王は「GNPよりGNHが大切だ」と言った。GNPのPのかわりに、ハピネス、つまり幸せのHを入れる、まあ、一種の言葉遊びだったのだろう。だが、ブータン国民はこれを国是として真剣に受け止め、その後、30年間かけて議論を重ね、ついに2008年、ブータン史上初の憲法の第9条にGNHという言葉が盛り込まれた。そこには、GNHを保障するのが政府の責任だと明記されている。

GNHの柱は次の4つだ。1つめに自然環境の豊かさ。2つめに伝統文化の保全と促進。3つめが良い政治。ブータンは、国王自らの呼びかけで、王政から民主制へ平和裡に移行した稀有な例だ。4つめが経済発展。だがそこには、「公正な経済発展」という形容詞がついている。一部の人だけが金持ちになるようなことを経済発展と呼ばない、という考え方だ。


文化のキーワードは「幸せ」

私たちは今、文明の海の中に暮らしている。文化は、まるで海に沈みそうになりながら、かろうじてプカプカとあちらこちらに浮いている島のようだ。文明と文化はどこが違うか。文明は「ここまでできることを示し、文化はここまでしないことを示す」と言った人がいる。それにならって言えば、文明のテーマは「豊かさ」と、それを追い求める果てしない欲望であり、一方、文化のテーマは「幸せ」と、それを得るための「足るを知る」知恵だと言えないだろうか。

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写真撮影:辻信一(ナマケモノ倶楽部世話人)


「幸せ」の定義は一人ひとり、また文化によっても異なる。だからGNHを数量化したり、測ったりすることはできない。それにもかかわらず、みんなが幸せに向かって生きている。幸せな社会とは一体何だろう? 幸せの定義はそれぞれ違っても、幸せな社会をつくるための最低条件はあるかもしれない。それをブータンの人々は4つの柱として提示したのだろう。

文化人類学者がこの100年間ずっと考えてきてもなお、文化の定義はいまだにはっきりしない。しかし、あえていえば、文化の本質は、ローカルであること、コミューナルであること、エコロジカルであること、という3つにまとめられると言いたい。

まずその1つめのローカル。グローバルな文化などありえない。文化とは地域に根差しているということだ。自分たちが食べるもの、自分たちが建てる家、自分たちが着るものから、価値観、死生観まで、すべてのものは本来、地域に根差していた。

2つめがコミューナル。人間は、本質的にコミュニティに生きる存在だ。そうであればこそ、これほど複雑な言語を持ち、綿密に意思を疎通させながら、妥協し、協力し合うことで、やっと生きていける。それが少しでも途切れると、苦しくて、淋しくて生きていけなくなってしまう。人間とはそうした弱く、もろい存在だ。でも、そうだからこそ生きることは意義深く、味わい深く、楽しい。人と共に生きることはしばしば苦しみを伴うが、共感し合えることが喜びとなり、生きがいともなる。

3番目はエコロジカル。私たちは自然環境に支えられて生きている。空気、水、土、太陽、そして生物の多様性がなければ、私たち生きていけない。どんな文化も、この条件の上に成り立ってきた。


スロー、スモール、シンプル

この3つは、スロー、スモール、シンプルという「3つのS」とも置き換えられる。スローとは、一定のスピードを超えないことだ。親は幼い子供のことを待ってあげなければいけない。しかし、親が年をとったら、今度は子どもに待ってもらわなければ。置いてきぼりにしたり、されたりしないように待ったり、待ってもらったり。私たちは、人間の網の目の中に暮らしながら、相手のペースに合わせたり、こちらのペースに合わせてもらったりしながら、折り合いをつけて生きている。そしてそれと同じように、私たちは、生態系という命の網の目の中で生きている。すべての関係性には、それぞれ本質的で、省略してしまってはならない時間があるのだ。

2番目のスモールの意義についてはE.F.シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』に詳しい。地域的な制約を超えたとき、私たちは自然環境に多大な影響を与えたり、持続可能ではない暮らし方をつくってしまう。「人間は小さい。だから小さいことは美しい」とシューマッハーが言ったように、人間らしい規模の暮らしを基本としたい。

3番目のシンプルとは、量をあまり増やさないこと。「足るを知る」という言葉がある。古今東西の賢人たちが、人間が幸せになるための道は、「足るを知る」ことにあると言っている。

若い人は、もう、大きな失敗を繰り返してきた私たちの世代をあまり頼らないほうがいい。またうらんだり、責めたりしてもしかたがない。これからはあなたがたが、自分たちで自分たちの世の中をつくっていくしかない。それは今あるものに手直しを加えるといった程度のことではなく、世界のしくみそのものを根本的に変えるような大きな仕事になるだろう。大変だけど、やりがいのある仕事だ。

そのためにももう一度、「豊かさ」と「幸せ」という基本的な2つの概念に立ち戻ってみる必要がある。そして、幸せとは何か、本当の意味での豊かさというのは何なのかを、ぜひ最初から考え直してほしい。


「私が考えるサステナブルな社会」

大切なのは、スロー、スモール、シンプルという「3つのS」です。スローとは、すべての関係性の網の目の中で、互いの「遅さ」を尊重しながら生きること。スモールとは、地域に根づいて人間にふさわしい規模で生きていく こと。 シンプルとは「足るを知る」こと。古今東西の賢者たちは皆、それこそが人間が幸せになるための道だと言っています。


「次世代へのメッセージ」

「豊かさ」に取り憑かれてしまったこの社会はすでに、破綻しています。若い人は自分たちの想像力と創造性を発揮して、社会を根本的につくりなおす仕事にとりかかってほしい。そこで、もう一度、「幸せな社会とは?」、「豊かさの本当の意味とは何か?」と、 問い直してください。


◆受講生の講義レポートから

『GNHは測れない。むしろGDPが測れるのがおかしい』という言葉が印象的でした。おじいちゃんと孫のコミュニケーションも取れないような、異常なスピードの経済成長は、家族のあり方にも関係あることだと思いました」

「私がたびたび思うのは、ブータンのような国に自分たちが行くことで、現地にどういう影響を与えるのか、ということです。『開発』が進む国を訪ねて、見たこと感じたことを日本で伝えることとで起こせる変化と、自分が訪れたことで現地の人々に起こる変化を比べたとき、果たして私は行くべきだったのか、と思ってしまいます」

「ブータンでは医療や教育が無料なのに、なぜ日本でできないのか、というご指摘は、本当にその通りだと思いました。問題は財源ではなく、社会をどうしたいかというビジョンが政治の基本であるはずなのに、今の日本ではすっかり忘れられています」


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