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貧困とサステナビリティ-日本の格差問題とは?

ダイワJFS・青少年サステナビリティ・カレッジ 第2期・第8回講義録

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湯浅誠(ゆあさ まこと)
NPO「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長

1990年代より野宿者(ホームレス)支援に携わる。「ネットカフェ難民」問題を数年前から指摘し火付け役となるほか、貧困者を食い物にする「貧困ビジネス」を告発するなど、現代日本の貧困問題を現場から訴え続ける。現在、反貧困のためのネットワーク構築にも力を入れている。著書に『貧困襲来』『本当に困った人のための生活保護申請マニュアル』など。

◆講義録

私は1995年からホームレスや野宿の人の活動に携わってきた。みんなで一緒に飯を作ったり、路上で一緒に泊まり込んだりという活動を2002年まで続け、今は「もやい」というNPOで生活困窮者のサポートを行っている。その中から見えてきた、日本の貧困の実体をお伝えしたい。

貧困の多様化

「もやい」に相談に来る人たちの状況は、この2~3年で相当大きく変化している。いくつか具体的な事例を紹介しよう。

内装大工の職人をしている41歳の男性がいる。その道15年の手に職のある人だが、今は仕事が減り、単価も下がって、月10万ぐらいしか稼げないため、野宿をしていた。

33歳の男性は、中学卒業後に働き始めて以来、十数年間、派遣の会社を転々としていた。この4月に派遣の仕事を打ち切られ、ネットカフェに泊まりながら次の仕事を探していたが、結局見つからないうちにお金が底を尽いた。

妻子のある35歳の男性は、派遣会社で働き、名目賃金は月々17万~20万。ただし、会社の寮費に8万円、電気代2万円、ガス代2万5,000円、その他家具のレンタル代や雇用保険、社会保険を引かれ、手元に残るのは月々5万円足らずだ。子どもの小学校指定の8,000円のカバンが買えず、「情けない父親だ」と言って連絡してきた。

かつて相談に来る人というのは、例えば日雇い労働者や母子世帯の人たちが大半を占めていた。私はそれを「古典的な貧困層」と呼んでいる。日本が高度経済成長を遂げた、あの1960~70年代を通じて一貫して貧困だった人たちだ。ところが近ごろは、そうしたカテゴリーに入らない一般世帯の人たちが、食べていけない状態に追い込まれている。相談事例が多様化しているのが、近ごろの特徴である。

セーフティネットの現状

日本の代表的なセーフティネットは3つある。1つは雇用、次が社会保険、3番目が公的扶助である。まず雇用を見てみよう。

労働市場を「中核的な正規社員」「周辺的な正社員」「非正規雇用」とわけると、その下に「失業」があり、かつては「非正規雇用」と「失業」の境界に貧困線があった。労働市場の中にいれば、働いていれば食べていけるはずと思われていた。

ところが最近は、非正規で働いている人が生活相談に来るようになった。貧困線が「中核的な正規社員」「周辺的な正社員」の間ぐらいまで上がってきている。労働市場がどんどん地盤沈下しているともいえる。もちろん「正社員」なら安心というわけでもなく、先日話題になったマクドナルドの店長がいい例だ。ほとんど自分の裁量がないにもかかわらず、管理職だからと残業代が払われないという「名ばかり管理職」が問題になった。

雇用が守られていない今、2番目の社会保険で支えられているのだろうか。まず思い浮かぶのは失業手当だが、2006年の数字では失業者の21.8%しか、失業保険を受け取っていない。1982年の59.6%から3分の1にまで減ってしまった。

すると、失業した途端に無収入という人がたくさん出てくることになる。こうした場合、緊急に生活保護などで対応しなければならない。3番目の公的扶助の出番だ。日本は憲法25条で、健康で文化的な最低限度の生活を、国家の責任で保障するとうたっている。生活保護法である。

これはどれぐらいの人に適用されているだろうか。20~40代ぐらいで、入院するほどの病気を持っていない人、障害者手帳を持っていない障害者は、生活保護の相談窓口に相談に行っても、まず99%追い返されている。この状況について、政府は1965年以降その調査をしていない。複数の学者の調査を総合すると、生活保護法基準以下で暮らす人のうち、生活保護を受けられている人は、概ね15~20%だろうと言われている。

現在生活保護を受けている人は110万世帯154万人。およそ850万人、東京23区の人口に相当する数が、憲法で保障されているより低水準の生活を送っていながら、生活保護を受けられず貧困状態にある。これが日本の貧困問題である。

背景に潜む「五重の排除」

マスコミの取材でよく受ける質問に、貧困になるのはどういう人か?というものがある。貧困の背景には「五重の排除」があると私は答えている。教育課程、企業福祉、家族福祉、公的福祉、自分自身からの排除の5つである。


今、子ども1人を大学まで卒業させるのにかかる費用は、平均して2,370万円。日本の教育の公的支出のGDP比はOECD30カ国中29位と、個人の負担が高く、お金のない人は大学にまで行けないのが現状だ。

高校の進学率は98%と、人口比全体で見れば高水準を保ってきた。ところが、路上で暮らす人たちの学歴は中卒が55%。ネットカフェで暮らしている人は、中卒が19%、高校中退が22%いる。低学歴で社会に出ると圧倒的な不利益を受けることを示している。貧困のスタートラインには、教育過程からの排除がある。

この背後には親の貧困があり、貧困な家庭に生まれた子どもも貧困になるという、貧困の世代間連鎖がとても深刻だ。貧困家庭に育ち、高等教育を受けなければまともな就職先はない。ハローワークに行って、中卒の人でも応募できる仕事がどれだけあるか調べてみるといい。こうして企業福祉からも排除される。

ただし、いい仕事につけないとしても、必ずしも全員が貧困状態になるわけではない。フリーターの平均年収は140万円。月額11~12万ぐらいしかならないが、実家に住んでいれば、自分が貧困だとは思わないだろう。日本社会は、家族が社会的なセーフティネットの肩代わりをしている側面が強い。

そうでなければ、この月収から生活費に加えて、年金、健康保険、住民税を払うのは無理だろう。福祉事務所に頼ろうにも、先ほど言ったように公的福祉は基本的にそういう人たちには窓口を閉ざしている。これが、公的福祉からの排除である。

こうして四重の排除を受けると、最終的には自分自身からの排除に至る。例えば自殺を考えてみてほしい。今、9年連続3万人を超える自殺者がいるという異常なことが起きている。そのうち3割、1万人は経済的な理由による自殺だといわれている。つまり貧困だ。頑張ればまた生きていけるとは思えなくなった人が、究極的な自分自身からの排除として自殺を選ぶ。

貧乏=貧困ではない

貧困とは「溜め」がない状態だとも言える。「溜め」というのは、人を包むバリアみたいなものだ。例えばお金があるというのは、「金銭的な溜め」である。頼れる親や親族、友人がいるというのは、「人間関係の溜め」である。自分はできると思える自信、前向きな気持ちというのは、「精神的な溜め」である。こうした総合的な溜めが、全体として小さくなっているのが貧困という状態だ。

溜めがある人はすぐに生活に困らないから、何かのトラブルに落ち着いて対処できる。失業しても貯金があれば、じっくり時間をかけて自分に合う仕事を探し直すことができる。人間関係の溜めがあれば、友人が仕事を紹介してくれることもあるかもしれない。

日本では、生活保護基準以下の人を貧困と定義している。全国平均で見れば、およそ10万円が生活保護基準となり、これを下回ると公式に貧困状態にあると認められる。こういう目安も必要だが、これはあくまで形式的な所得で切ったもので、貧困とは経済的な所得だけの問題ではない。

例えば、「昔はみんな貧乏だったんだ。そういう中ではい上がってきたんだ」と言う人がいる。確かに所得は低かっただろうが、その人には家族や支えあう地域、つまり「溜め」があったのかもしれない。それは貧乏かもしれないが、貧困とは違う。

この溜めは目に見えないため、自分の持っている溜めに自覚的でない人が多い。うまくいっている人ほど、今の自分があるのは自分が頑張った成果であると思いたがるのが人情というものだ。


次世代にツケを先送りしない施策を

政府は、なぜこうも貧困問題に有効な施策を打たないのか、と不思議で仕方がない。官僚になるようなエリートは、大きな溜めのある人が多いために、貧困の実体がわからないのだろうと思う。本当に素朴に「頑張れば何とかなるための施策を作っている」などと言うが、五重の排除を受けてきた人が「頑張る」ためには、相応の条件が必要だということに気づいていない。無闇に頑張れというのではなく、そうした条件を整える支援を先行させるべきだ。

貧困問題に対処するのは「かわいそうだから」という発想はもうやめよう。社会が自分自身の貧困を回復するために、社会そのものの持続可能性を高めるために、必要なことなのだ。

今のフリーターや非正規の人たちは、高度経済成長時代に資産を築いた団塊世代を親に持ち、その資産を食い潰すという選択肢がある。そのため、家族の溜めの中で、貧困問題が社会化されずに来たのだ。だが、もう一世代回ったら、いよいよ貧困状態に陥る人が大量に生み出されることになる。

憲法25条がうたっている、誰でも健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、その生存権を保障できない国に持続可能性はないだろうと私は思う。少なくとも、多くの人が自分で頑張れる、そこまでの条件は、誰に対しても整えられる社会にする必要があるだろう。

◆配布資料(PDFファイル 約1.09MB)

◆私が考える「サステナブルな社会」

誰でも健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、この生存権が保障されないようでは、持続可能な社会とはいえません。多くの人が頑張るための条件を整え、小さくなってしまった「溜め」を拡大できるような社会資源を充実させることで、社会自身の持続可能性も高まるだろうと思います。

◆次世代へのメッセージ

貧困問題の解決には、企業より政治を変えるほうが早いでしょう。ただし、放っておいても政治は動きません。私たち民間側から、ロビーイングをしたり、マスコミに取り上げてもらう、集会を開くなど、さまざまな働きかけをしています。政治が変わらないといけないのは確かですが、それは政治家に任せることとは違います。

◆受講生の講義レポートから

「サステナビリティというと、環境問題を思い浮かべますが、そもそも人や社会が持続可能でなければならないという大前提があることを再認識させられました」

「社会自身の持続性を高めるために貧困をなくす努力が必要だ、というのが心に響きました。今までは『かわいそうだから...』という思いがあって、なんて上から目線だったのだろうと思います」

「貧困問題についてというより、社会について考えさせられました。自分の周りの環境しか見えていなかったことが衝撃です。日本が決して豊かとはいえないことに、はっきり気づかされました」

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