和歌山は田辺湾に浮かぶ小さな島、神島(かしま)。国の史跡名勝天然記念物に指定されているこの島に住む人は一人もいない。その代わりというわけではないが、ハカマカズラ・カシマイボテカニムシといった暖地の森林性植物・動物が数多く生息しており、原生の照葉樹林をもとにした植生・生態系が息づいている。かつて、このわずか3haばかりの小さな島とその自然に魅せられ、虜となった男がいた。生物の宝庫であったこの島が1936年、国の天然記念物に指定されたのもこの男の情熱によるところが大きい。和歌山が生んだ世界的な博物学者であり民俗学者であった、南方熊楠、その人である。
若くして単身留学して粘菌の研究に没頭し、英国の科学雑誌『ネイチャー』へも論文を発表。帰国後は故郷和歌山に住み、粘菌の研究を続けて、熊野の山に分け入り次々と新種を発見するなど活躍した。アカデミズムにとらわれない在野の学者として独自の存在感を保ちながらも、町の人々には「南方さん」と呼ばれ慕われていた。そしてそればかりでなく、南方熊楠は「エコロジー(生態系)」という言葉を日本で初めて使った人とも言われる。足尾鉱毒事件への運動で知られる田中正造と共に、日本近代の環境保全運動の先駆け的存在と言っても過言ではなく、ここでは南方熊楠の多彩な業績の中から、この環境保全への取り組みにスポットを当ててみたい。そのエッセンスは、神島に対する彼の思いと行動から窺い知ることができる。
熊楠は新聞に寄せた随筆において、「この島の草木を天然記念物に申請したのもこの島に何たる特異の珍草珍木があってのことにあらず。この田辺湾固有の植物は、今や白浜辺の急変で多く全滅し、または全滅に近づきおる。しかるに、この島には一通り田辺湾地方の植物を保存しあるから、後日まで保存し続けて、むかしこの辺固有の植物は大抵こんな物であったと知らせたいからのことである。」と書いている。開発によって崩されてしまう生態系を少しでも保ちたい、単に神島が特別だからではないのだ、そういう想いが伝わってくる。
熊楠の今に言う自然保護運動のきっかけとなったのは、神島をめぐる話より前、神社合祀反対運動と呼ばれる運動である。この時代、神仏分離令(1868年)に始まる宗教政策の一環として、1906年頃から「一町村に一神社を標準にせよ」という神社合祀が全国的に推し進められた。そのために各地で住民の親しんだ身近な神社が失われ、その過程で周辺の自然環境が崩されていくことも少なくなかった。ある日、熊楠が希少な粘菌の標本採集のためよく訪れていた高山寺内、申神神社へ行ってみると、あるはずの森が無くなっているのを目の当たりにする。これに衝撃を受けた熊楠は神社合祀に対する猛烈な反対運動を繰り広げるようになっていったのである。国・県へ批判の文書を送るのに始まり、集会への乱入など過激な行動にもおよび、一時拘留されたりもした。この反対運動はすぐにとはいかなかったものの徐々に理解を得て、それまでに沢山の自然が失われてしまったものの、大正に入ってから合祀の流れは下火になっていった。こういった情熱に基づいた行動の結果が、冒頭の神島の話にもつながっている。
もともと組織や社会的活動に興味を示してこなかった熊楠をここまで駆り立てたものは、長年日本人が沢山の神が宿る場として敬い保ってきたはずの森林・多様な自然の存在をないがしろにしてはいけない、そういう信念であったのだろう。私たちが現代思い出したいと感じている自然観を、熊楠の中に見つけられはしないだろうか。

Let's make fuller use of rainwater!





