ニュースレター

2016年03月16日

 

これからの経済成長と持続可能な社会像

Keywords:  ニュースレター  定常型社会  幸せ 

 

JFS ニュースレター No.162 (2016年2月号)

写真:河口真理子氏
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河口真理子氏は、大和総研・主席研究員としてCSR/ESG投資/エシカル消費の分野での研究を専門とされ、社会的責任投資フォーラムの共同代表理事も務めています。2015年2月に幸せ経済社会研究所のインタビューを受け、社会のコンセンサスが取れる経済成長、限りある地球におけるこれからの企業のあり方について、お話されました。今回のJFSニュースレターでは、河口氏へのインタビューの内容をお届けします。


枝廣:経済成長とはどういうことでしょうか

河口:世の中の人が言っている経済成長というのは、「GDPが増えること」と一般的にとらえられ良い事だと思われています。成長という言葉、growthという言葉のイメージは、「育つ」「大きくなる」「ベターになる」という前向きな意味がある。その価値観を背景に、「成長はなんでもいいことなんだ」という暗黙の発想があって、だから「経済成長も良い」ことで、「どうやってそれを測るの?」となって、GDPの大きさで測っているという仕組みがある。

「経済成長がいいことかどうか?」という質問は、人によって受け方が全然違うはずなのです。「何をもって経済成長とするのか」をまず問わないといけない。質的な発展という意味なのか? 「GDPが増えた」ことが経済成長なのか? によって、かなりその意味合いが違ってくるんです。

逆に言えば、脱成長論にありがちな「GDPが増えることは悪だ」と言い切るのもどうなんでしょう? 善か悪かという単純な問題でもないでしょう。悪と言っている人たちも、自分たちは確実に今の豊かな経済レベルの恩恵は受けているんですから。大企業のアクセクした働き方を批判して、田舎でネットを通じてスローな暮らしをしている人たちがそんな暮らしが出来るのも、大企業でアクセク仕事している人たちがネット環境を作ってくれているからで、一方的に批判して済むものじゃない。お互い様という基本スタンスは大事にすべきだと思う。

では、われわれは何を目指すべきか? 社会のコンセンサスが取れる経済成長というのは何か? まずそれを問うべき。

第一に「GDPの成長」を単純に「経済成長」とすることは、私はいけないとは思う。

けれども、人間というのは向上心があるので「発展」を求めるものだから、「成長する」ことを否定するものではない。また経済的に豊かになることが悪いかと言うと、そうでもない。
ただし、GDPが経済的な豊かさを測る指標として適切なのかというと、GDPをかさ上げする要因には富や豊かさにネガティブな影響を与えている要因が少なくなく、その弊害が大きくなっていることを考えると、非常にミスリーディング。経済成長のKPI(主要なパフォーマンス指標)にGDPを使っているから、結論を間違っているのではないの、ということです。

もともと、GDPの始まりは、第二次世界大戦中に、敵の国力がどのくらいあるかを計算するために国が富として保有している総額を計算するために開発されたと言われます。それを便利だから経済政策の基本ツールとして流用してきただけですね。豊かになるための経済を測る指標として開発されたものではない。

先日、アダム・スミスの本を読みました。実は彼は、「物質的な成長と心の豊かさはリンクしている」とは一言も言っていなくて、「それとこれとは違う」と言っている。最初に書いた『道徳感情論』は、1759年が初版で、その後6回改訂されていて、1776年に『国富論』を書いた後にも改訂している。そこまで入れ込んでいるのをみると、彼は国富論より、道徳感情論の方を言いたかったということがわかる。つまり「人の心の豊かさ」とか「道徳的なモラル」ということを究極には言いたかったと思います。

けれども、何で『国富論』を書いたかと言うと、私の推論ですが、当時はまだ近代化・高度成長の前なので、ちょっと疫病や飢饉があると人が大量に死んだりして、結局人口が増えない状況下では、どうやったら「貧しくて死んでしまう」ということから脱却できるのか、という強烈な問題意識があったように思います。

そのためには、「どうやったら産業が起きて、より多くの人が食べられるような仕組みができるか」ということを、農村や商人、職人の活動をつぶさに観察しながら、一生懸命考えて、そこから法則性を引っ張り出してきたのが、『国富論』だったのではないか。

そうやって考えると、当時の人としては、「物質的に豊かになる=より多くの人が養えるようになる=人類が栄える」ことだから、それを追求しようと。ただし、アダム・スミスは、『道徳感情論』の中で、くどいほど、それと個人の幸せとは違う、と強調しています。

後世の人が、「豊かになれば幸せになるはず」と勝手に決めて、アダム・スミスを都合よく引用して勝手に成長イコール豊か、イコール幸せとしただけで。

だから、今の状況を、アダム・スミスが見たらびっくりすると思う。「そんなこと言っていない!」って。後世の経済学をやってきたという人たちは『国富論』の都合のいいところだけ使っていて、市場メカニズム絶対主義でモノさえ増えれば豊かに幸せになるという大きな誤解の上に、「経済成長は善」という議論が起きている。

本質的な意味で、豊かになるために努力をすることはいいことだと思います。でも、「豊かさをどういう指標で求めるか」は、議論しないと。今の日本の状況、ここまで来たら、それとは違う所に豊かさがあるんじゃないか。だから追い求める方向は変わらないと。

まず人が常に進化したいという思いを、「成長」と見るか「発展」と見るか。「成長」と言うと、何となく数とか量が増えるというか。「発展」と言うと、もっと質的な意味を含む。いわゆる物質的な経済成長から、本来であれば、心を含めた発展にシフトするべきであろうと思います。

特に、今からやみくもに物質的な成長をすると言っても、地球は1個しかないし資源には限りがあるので、それをいかに効率的に有効活用するか。資源を有効活用する企業努力は、個別企業の生産性向上となり「利益の成長」を生み出す場合もある。それは否定することではないし、個々の企業が切磋琢磨して努力して、少ない資源でより多くの満足が得られるようになれば、それは社会全体にとってはプラスなのでどんどんやっていくべきだと思う。

ただ、企業単位というミクロ的にはよくても、地球が1個しかないのにパイ全体がどんどん大きくなることはないので、マクロ的にこうした成長は無理がある。つまりミクロとマクロの整合性を考えると、物質的な成長を「質的な意味を込めた発展」という形に置き換えていくのであればいいと思うけれど、今のやり方ではミクロ的成長の総和をマクロの成長としているので、このままなら行き詰まるでしょうね。

ミクロとマクロの折り合いの付け方の1つのヒントは、すでに企業体の変化の中にあると思います。利益成長を義務付けられた「株式会社」は、常に前進しなきゃいけないマグロのように、常に成長していることが求められている。

私は、100年後には株式会社はなくなると思っている。常に成長しないといけない組織がこの狭い地球に溢れるのは無理だから。少なくとも経営主体としてはメジャーではなくなる。150年前も日本経済を支えてきた企業体のうち株式会社は多くなかったでしょう。だから100年後に消えてもおかしくない。

マグロの養殖に成功した話を聞いたのだけど、とにかくマグロって直進しかできないので、稚魚を入れると養殖池の壁に当たって死んでしまう。なぜよけないのかというと、彼らの生態は広い太平洋を常にグルグル回っているので壁にぶつかることがない。だから前進するヒレしかないらしい。マグロは壁があることを知らない生き物。でも養殖は「壁の中で」となる。養殖池に入れられたら壁にぶつからないでグルグル回れる魚に生まれ変わらないといけない。環境に合わせて体が変化する適者生存が必要となる。

株式会社のように、利益成長を至上課題とするような組織が引っ張る経済は、地球1個の制約のもとではやっていけないので、組織形態自体が変わらなきゃいけない。それは、今の大企業がそのまま変わるということではなくて、違う組織がとってかわるのではないかな。

たとえば今NPOやソーシャルビジネスに転職する優秀な若者がすごく増えている。「ヒラメのようなのんびりした魚のほうが今やサステナブルじゃない? あのマグロはもうこの環境では行き詰まるよ」と若者は潜在的に感じているのではないか。こうした若者の関心は、一時的なものではなくて21世紀型の「サステナブルな事業形態」に変わるきっかけだとみています。

これから、優秀な人的リソースは営利追求型組織から、社会貢献型組織へシフトしていく。つまり20世紀までは地球は無限が前提で経済成長の壁が見えなかった。だから株式会社が、「みんなで頑張ってどんどんモノつくろう」と全員で前進するマグロモデルが良かったのだけど、今や壁があちこちに出現し、皆がこのままだと壁にぶち当たって死ぬことが分かって来た。だから、ヒラメなど、止まったり後退できる魚に変態しはじめている。同様に2100年ぐらいには企業というか経済価値を生み出す組織の形態も変わると思います。

どんな組織かというと、ヒントになるモデルは、老舗の料亭。腕を磨いた板前さんが管理できる規模の店舗で、限られたお客さんに良い料理とサービスを出す。別に売上が伸びなくても、常に板前さんが切磋琢磨してお客さんをひきつける努力をしている。このお店に来た人はみな満足する。「大きくならなくても、かかわっている人に十分にキャッシュフローが回る」という、そっちのビジネスモデルが経済の主体になってくるのじゃないかと思います。無理して拡大するから、味が落ちてお馴染みさんから見捨てられたり、アユを使いまわすなんて不祥事起こしたりするので。

ただ、努力しないと駄目になるので、競争はある。売上は増えなくても、一定のキャッシュフローは確保する努力は必要で、かつ「成長」というのを、「お客さんの満足度を上げていくこと」という質の発展に置き換えれば永遠の成長というか発展は可能。そういう成長、が21世紀型に求められる成長。

過去あったように、株価がガンガン上がってというようなのは、50年100年単位でみるとあまり期待できなくなるので、資金調達のあり方も変わると思う。「成長する株式会社に投資して儲けようよ」ということから「この会社だったら、キャッシュフローはあるので毎年配当はもらえて、世の中にいいこともしているという話があって、投資してもいいんじゃないの?」みたいに。

衣食住にかかわる多くの事業は老舗の料亭化していくので、資金調達は、ソーシャルビジネスに対するクラウドファンディングみたいなものがメインになるんじゃないでしょうか。多くの個人が共感するソーシャルビジネスにネットを通じてちょっとだけ投資していく。そういう資金調達の仕方がメジャーになるんじゃないかなと思います。

そうやって考えると、今のマイクロ投資とか、市民発電所への出資とか、ワーカーズ・コレクティブみたいなものが増えるのではないかと考えています。今後の投資とは、一部、ハイテク系やバイオ系だとか、まだまだ高い成長が期待される新しい分野にはリスクを取る投資資金は行くだろうけれども、衣食住にかかわる大きな変動がない分野であれば、老舗料亭系の投資先に直接投資してそこからキャッシュフローを回収していく、と二分化していくんじゃないかな。それも上場する大企業もあれば、街の食堂とかコミュニティビジネスに地域のみんながクラウドファンディングで出資して支える、そういうソーシャル出資型も広がるでしょうね。現に内閣府は地域の事業に出資する「ふるさと投資」の仕組みを推進しているし。

枝廣:経済成長が必要なフェーズと、もういらないフェーズ、本当は切り替えたほうがいいフェーズというのは、どうやったらわかるのでしょう?

河口:切り替えということでは、取りあえず、日本はどう考えても変えるフェーズですね。それを見る指標としては、豊かさを測る指標として一人当たりどのぐらい資源を持っているか、でしょうか。例えば一人洋服何着ずつぐらい持っているか、教育レベル、水がちゃんと飲める、電気がある、文化的な生活ができる。体の健康と教育とネットワークができて、文化的な生活ができることを指標とする。

でも、基本的な衣食住は十分でも、技術進歩はさらに次を追い求めていて最近ではiPadだとか新しいモノが生まれて、どんどん飢餓感不足感をあおるわけですが。

枝廣:経済成長を続けることの犠牲があるか、あるとしたらどんなものでしょうか

河口:経済成長を続けることの犠牲は、GDPで測れないところを削って、GDPに上乗せしているのじゃないの、ということ。

たとえば日本ではここ数十年、セコムとか警備保障がビジネスになっていて、それはGDPにとってはプラス要因。だけど、40年前50年前は、日本は安全だったので、鍵はいらなくても大丈夫なところがたくさんあった、と。

水もそうで、今は水が汚れているから、浄水器ビジネスが生まれる。私が子どもの頃、日本の水道水はどこでも美味しいと言われて育った。アメリカに滞在して、水は買うものといわれびっくりした。どこの水でも飲めるほうがQOLは高くてお金はかからないけれども、GDPには寄与しない。

ビジネスが世の中の需要から出てきたということだけど、それを生み出す要因が経済発展の負の部分だったりする「ない時のほうが良かった~」みたいなのも結構ある。あって良かったものもあるけれども、失ったものも結構あって。

便利になる一方で昔は当然だった価値をどんどん失っている。昔あった価値を削って、新たな技術をGDPに組み込んで価値として計上する。ストレスがたまる暮らしで、うつの人が増えれば病院の収入が増える、という分かり易いプラスだけが伝わる。「うつじゃない人が増えたほうが健全な社会」という部分が見えてこない。

枝廣:日本で具体的に犠牲とか失われたものは?

河口:里地里山の景観と河川や砂浜の海岸、などの自然の風景はすごく失われている。水がまずくなった、アユもホッケも小さくなった、日本のウナギもいなくなった、とか。それをどのくらいの人が失われた価値と思うか。でも「何が価値か」というのは、そのときの時代によって違うので、注意しないと。

私がよく使う話に、合掌造りの白川郷があります。

白川郷に車で家族旅行した時、白川郷が近づくにつれ周囲がどんどん寂れたところになっていって、その途中には、トタン屋根のみすぼらしい集落がさびしげにあってその後に白川郷がやっと出てきた。

話を聞いてみると、実は途中に見えたみすぼらしい集落も全部、昔は白川郷みたいな合掌造りだったとのこと。手前の集落はアクセスが良かったので、戦後、どんどん経済的に豊かになり、西洋風の物質がどんどん流入してきた。

それで、「こんな古臭い合掌造りはやめて近代化だ!」と、トタン屋根の近代的なピカピカのお家にしたはずだった。しかし30年たったら、トタン屋根はみすぼらしくなり、古臭い合掌造りは世界遺産。

当時は、白川郷の人は、恥ずかしくて「白川郷出身だ」って言えなかったそうです。「いまだに古臭い合掌造り」と言われるから。だから、価値といっても歴史的な時代を経られるものなのかどうか。「トタン屋根で格好いい」「今風じゃない?」が、30年であっという間に古くなる。時代を経ないとわからない価値というのがあるんじゃないか。それを今見極められるか。

今、日本全国で、近代化に遅れた古いモノの価値を見いだす動き、「本来の価値は何だったのだろう」という問い直しが起きている。今までの価値観からすると、「トタン屋根の家を新しく作るのは近代的だから良い」となる。でもたぶん、白川郷のような藁葺きを補修維持するほうが、付加価値が高い時代に移行しつつあると思います。

枝廣:「経済成長」と「持続可能で幸せな社会」の関係はどうなっていると思われますか

河口:「経済成長」と「持続可能な社会」は本質的には関係ないです。ただし、今の経済の仕組みは、税金の仕組みにしても社会保障の仕組みにしても、経済成長を前提にしている。物質的にモノがあって十分だとしても、社会的な仕組みとしてモノがちゃんと行き渡るためには、成長しておかないといけないという、変な仕組みをつくっちゃったので、そこを変えないといけない。

よくあるのは、「人口が減ると社会保障が駄目になる」という議論。人間のために社会保障があるのに、「社会保障のために子どもを生め」って、逆転していると思うけど、現状だけ見るとそういう本末転倒な議論になっちゃうんですね。

それを分けて考えて、経済的には増えない、人も増えない、その前提でもう1回仕組みをつくり直そうよ、と言わなきゃいけないのだけど、既存の仕組みでいきなりそれをやると、非常に抵抗も大きいし、弊害も大きい。

枝廣:どうやって変えていったらいいんでしょうね。

河口:既存の建物(仕組み)を壊して新築して一気に全員で引っ越すというより、徐々に、今まで暮らしていた建物はそのままで、新しい建物には出来る人から少しずつ引っ越しましょうね、みたいな感じでしょうか。一部の若い人たちはもう、あっちから下りちゃって、こっちに来ている感じですね。

ただ、既存の建物に居る人のほうが圧倒的に多い。それをどうこちらに来てもらえるか。ソフトランディングの道が示せないと、ハードランディングになっちゃうから。それを経済政策担当者も政治家も恐れていますよね。

このままだと経済のクラッシュだけではなく、環境のクラッシュがより怖い。環境活動をしていて私が感じるのは、これって「メンシェビキ」的だなという後ろめたさ。「ボルシェビキ」的な大変革が起きたらどうしよう、って。

ボルシェビキというのは、ロシア革命のときにレーニンが指導した労働者による社会革命のことです。1917年に、ツァーによる絶対封建体制を、下からひっくりかえした革命がボルシェビキ。

でも実はその10年以上前からメンシェビキという社会改革運動がありました。ロシア貴族階級の若者が、「貧しい農奴とツァーの絶対的な権力構造、この極端な不平等社会のままならロシア帝国は崩壊するから、帝国と貴族階級の仕組みは維持しつつ、貴族階級から漸進的に改革をして、農奴の権利を認め彼らの生活を豊かにして、不満を解消しよう」という、メンシェビキとよばれる漸進的改革をやっていたのです。

しかし、結局間に合わなくて、手ぬるくて十分な改革ができなかったから、農奴や労働者主体の、下からのボルシェビキが最終的に革命を主導した。

今私たちが環境対策でやろうとしているのは、今の秩序と快適な生活を維持しつつ、でもクラッシュしないように、少しCO2を減らそうか、というメンシェビキ的発想で、ある意味生ぬるい。

このスピードとCO2の8%削減なんて程度なら、地球から反乱起こされるかもってすごく内心恐れています。また社会保障制度も、年金が減るとか消費税増税は受け入れられない、と文句を言っている間に日本の財政自体が破壊するかもしれないリスクもある。

過去40年で、私たちは地上の40%の生物種を絶滅させたそうです。地球環境が待ってくれる時間はほとんどない。その緊迫感をどのくらいの人類が共有できるかが、救済のカギですね。

100人に聞く「経済成長の必要性」(幸せ経済社会研究所)より
http://ishes.org/project/responsible_econ/enquete/enq070_kawaguchi.html

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