ニュースレター

2014年07月08日

 

昭和の暮らしから学ぶこと――住みこなす知恵の歴史

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JFS ニュースレター No.142 (2014年6月号)

今月号のJFSニュースレターでは、大阪くらしの今昔館館長 谷直樹氏による、M・O・H通信42号(2014年冬号)への寄稿「昭和の暮らしから学ぶこと――住みこなす知恵の歴史」を、谷氏と同編集部の快諾を得て紹介します。

日本型の長屋ぐらしがどのような文化や人のつながりを育んでいたのかをぜひお読みください。

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1.路地と長屋の町

今年、生誕100年を迎えたオダサクこと織田作之助(1913~1947)の代表作に『わが町』(昭和18年)がある。物語は大阪の「河童路地」が舞台である。「路地は情けないぐらい多く、その町にざっと七、八十もあろうか。いったい貧乏人の町である。路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族より多いのだ。」と書かれている。路地の住人は、主人公である人力車夫「ベンケットの他やん」、「傘の修繕屋、羅宇しかへ屋、落語家、弁士、相場師、一銭天婦羅屋」といった人びとである。「貧乏人の町」といわれるが、祭りともなれば子どもに揃いの浴衣を着せる程度の余裕はある。隣の家の様子は筒抜けで、「他やん」が娘をきびしく叱っていると、それを聞きつけた隣の落話家「〆団治」がとんで来てなだめにはいる。

オダサクが描いた大阪の町と人は、路地と長屋が舞台である。昭和戦前の長屋ぐらしはいたっておおらかであった。当時の大阪は「大大阪」といわれ、御堂筋の近代的な町並みや道頓堀の繁華街などが代表とされるが、もう一つの顔として路地と長屋の庶民の町があった。

2.商店街・路地・長屋の町

私が館長をつとめる「大阪くらしの今昔館」には、「商店街・路地・長屋」とサブタイトルをつけた「空堀通」の精巧な模型がある。空堀は大坂三郷の周縁部にあって、もともとは徳川幕府の御用瓦師の土取り場から出発した。江戸時代の中頃から長屋が建てられ、明治時代には空堀商店街が発展した。この地域は路地と長屋の町としても知られ、上方落語の「駱駝」にも登場する。この模型の時代は、昭和13年(1938)8月24日に設定されている。一見、江戸時代以来の町並みのようであるが、よく見ると、表通りには「すずらん灯」と呼ばれたしゃれた街灯があり、町家も軒蛇腹のついた本二階建てが普及している。まぎれもなく昭和戦前の大阪の町並みである。表長屋の脇から路地が延び、奥には裏長屋がぎっしりと並んでいる。路地には共同水道、共同便所、地蔵堂などがある。

模型の設計は、増井正哉氏(現・奈良女子大学教授)が担当し、徹底的な調査が行われた。まず、地籍図から宅地の形状を把握し、現地で地形の高低差を計測し、何軒かの住宅の実測調査を行った。ふつうの模型ならここまでであるが、増井氏は、模型の制作範囲に昭和の初期から現在まで住み続けている人をすべてリストアップし、また転居した人は現住所を訪ねて関係資科の調査と聞き取りを行った。その結果、居住者や世帯構成がおおむね明らかになり、建物についても当時の住宅の間取りや外観だけではなく、隣近所の建物や町の景観の情報も収集した。例えば古写真は確認作業を行って場所を特定し、裏長屋の格子の種類は近隣の複数のデザイン例からお年寄りに選んでもらい、共同水道の周りは石鹸の置き場まで聞き取りを行った。

馬方にむち打たれ、善安筋の石畳の坂をあえぎながら登る馬力(馬車)を、いつも2階の窓からながめていた少女、路地の入口で駄菓子を売っていたお婆さん、歯医者の前で駄々をこねる子ども、便所の汲み取りのおじさん、おかみさんの井戸端会議など、聞き取り調査による地元の人々の思い出話が、この模型の中に再現されている。そして8月24日は地蔵盆の日である。路地の奥にあるお地蔵さんの前では、路地の上に仮設の屋根を設け、お坊さんの横で浴衣を着た子供たちが丸い輪を作って数珠くりをしている。長屋の軒先の提灯は、住人である扇子職人のおじさんが作ってくれた。盛んであった昭和戦前の地蔵盆の風景が、みごとに再現されているのである。

現在の空堀は、戦災をまぬかれ、伝統的な居住空間が残されている大阪でも数少ない地域である。近年は、長屋の町並みを活用した取り組みが活発に行われている。昭和の60年間におよぶ暮らしの知恵をこの模型に問いかけることで、現代のまちづくりに対する様々な示唆を得ることができるのではないだろうか。

3.豊崎長屋の暮らしと文化

ここで、最近、長屋の再生プロジェクトとして注目されている豊崎長屋での暮らしと文化を紹介したい。豊崎長屋は、大正10年(1921)から同15年にかけて開発された住宅地で、大阪駅から徒歩20分ほどのところにある。300坪ほどの敷地の中央を土のままの路地が通り、家主が住む主屋と15軒の長屋建ての貸家(借家)が配置されている。豊崎長屋は大正末年に誕生したが、そこには昭和の戦前から戦後を通して、家主と借家人が育んできた暮らしの文化が残っている。

私がはじめて豊崎長屋の家主さんを訪れた時、木造の主屋を丁寧に住みこなしておられた。室内は台所の土間を床上化するなど部分的にリフォームを行い、トイレや風呂の更新はあるが、障子・襖・床の間など和室中心の住まいが引き継がれている。伝統を意識した床の間の飾り付け、季節を感じさせるスダレや風鈴、台所に貼られた火の用心の御札、水や榊が供えられた神棚や仏壇など、豊かな住文化が息づいていた。

借家人である長屋の住人にも、戦前から住み続けてきた人たちが多く、家主さんと同じように和室中心の住まい方や、路地の掃除や水まき、盆栽の手入れなど、共用空間の維持管理もしっかり行われている。住人たちは、昭和30年代・40年代の同じ時期に子育てをし、お互い子どもたちの面倒も見合ってきた。

今では高齢者だけの世帯になったが、気心の知れた人間関係の中で安心して暮らしている。路地を介した長屋建てという空間の形と、長屋に住み続けるなかで培われた人の繁がりを両輪とした伝統的な居住システムがそれを可能にしているのである。

さらに、高層ビルが建ち並ぶ都心にありながら、今なお歩いて暮らせる生活圏が維持されていることも豊崎長屋の魅力である。高齢者の徒歩圏とされる500m圏内に、多くの生活利便施設が立地している。安くて、店の人の顔が見える商店街、高齢者には欠かせない病院、地下鉄の駅、郵便局、図書館などの公共・公益施設もこの圏内にある。そのため、車を所有している住人はなく、車を持たなくても生活できる条件が整っている。

再生プロジェクトを開始するまでの豊崎長屋は、築後80年以上を経過して建物の老朽化が進み、空き家も増えていた。そこで、大阪市立大学生活科学研究科の教員や学生が、家主さんや住人の方の理解と協力を得て、7年間にわたって長屋住まいの調査を行い、実際の再生工事、つまり設計と施工を行ってきた。その中で、高齢者には、コンクリートではなく生活になじんだ木造の生活空間がより適しているという確信を得た。そこで、よくある商業的活用の町家再生ではなく、住宅としての長屋再生を目指すことにした。ここにこのプロジェクトの特徴がある。木造を大事にするため、外観はできるだけ伝統的な様式に戻した。一方で、木造住宅の耐震改修や内部の改装などは最新の技術と材料を使い、住宅デザインの研究室の教員と学生の設計で、現代の生活空間としても魅力のある長屋に仕上げていった。

再生長屋が完成すると、工事に参加した学生が長屋の住人として住み始めた。高齢者だけでなく、若者たちも長屋ぐらしに新しい生活像を見出したのである。それまでワンルームマンションに住んでいた時は、毎目夜遅く帰って、住まいは寝るだけの場所であった。長屋ぐらしを始めてからは、夕方に家に帰り、室内に風を通したり、趣味の人形を飾ったり、本を読んだり、住みごたえを感じている。毎週水曜日には、同じ長屋の若者が集まって食事会をするが、近所迷惑にならないように夜10時には切り上げる。路地の掃除や維持管理にも気がつくようになった。若者たちの間でコミュニティのルールが生まれたのである。近代社会が切り捨てて行った日本型の長屋コミュニティが、自発的に育まれていったのは驚くべきことである。こうした経緯をまとめて、今春、 『いきている長屋―大阪市大モデルの構築』(谷直樹・竹原義二編著・大阪公立大学共同出版会刊) という本を出版した。本のタイトルのように、豊崎長屋は「生きている長屋」として現代によみがえったのである。

4.昭和の暮らしから学ぶこと ―住みこなす知恵の歴史

いま日本の町や住まいは、歴史を活かした再生が求められている。歴史とは過ぎ去ってしまうものではなく、現在を生み出し、その存在の根拠となるものである。日本では、これまであまりにも多くの歴史の蓄積を、惜しげもなく捨て去ってきた。それが近代化の特質であるとさえ思いこんでいた。個性的な文化は歴史によってつくられるという事実に気づくことができなかったのである。

地続きの国境をもつ国では、歴史の蓄積が隣国との違いを際立たせるものと考えられている。とりわけ歴史的な建造物や町並みは、国や都市のシンボルとして大事にされてきた。歴史はアイデンティティ=帰属意識を醸成する装置といえるかもしれない。しかし、周りを海で囲まれた日本では、こういった考えが希薄であった。

私の職場がある大阪は、先端都市を追い求めるあまり、歴史都市としての自己評価を疎かにしてきた。ここで発想を変えて、昭和の60年間に市民が蓄積してきた生活文化に注目すべきであろう。「大阪くらしの今昔館」に展示されている、昭和初期の空堀通の模型に再現された生活文化は、都市再開発の波に洗われながらも現代の空堀界隈に引き継がれている。そして地元の人たちは、地域の歴史や文化を大切にしたまちづくりを行っている。一方、豊崎長屋でも路地を介した長屋のコミュニティが健在で、長屋内部のリニューアルもあって、若者が住み始めている。

空堀も豊崎も、町の魅力を一言で表すと、他の地域ではほとんど失われてしまった庶民の生活文化が残されていることである。それは、昭和の60年間に蓄積された、住みこなす知恵である。ここは、昔の大阪を知る高齢者にとっては懐かしい記憶の場であり、若者や芸術家、外国人にとっては、未知の文化を体験する場になる。昭和の生活文化という歴史資産に光を当て、その創造的な活用を図ることが、現代社会から要請されているのではないだろうか。(豊崎長屋は居住地なので一般公開はしていない)

〈参考〉
大阪くらしの今昔館
新江州株式会社 循環型社会システム研究所 M・O・H通信 42号(2013年12月20日発行)より転載


(大阪くらしの今昔館・館長 谷直樹)

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