ニュースレター

2013年02月19日

 

里道が担う共的領域

Keywords:  ニュースレター  市民社会・地域 

 

JFS ニュースレター No.125 (2013年1月号)


持続可能な社会を考える上での重要なキーワードの1つが「地域」です。地域を観、考える視点はさまざまにありますが、なかでも「ローカル・コモンズ」の考え方や実践は、今後注目が集まるものの1つだと考えています。今回はローカル・コモンズの1つの事例としての「里道(りどう)」について、専修大学経済学部の泉留維准教授の書かれた「里道が担う共的領域」(『ローカル・コモンズの可能性』ミネルヴァ書房、2010年)からご紹介します。

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「里道」の意義

人と道の関係は切っても切り離せないものであり、道は人の営みの開始とともに始まり、社会の進展とともにその形態を変化させてきた。なかでも、主に近代的所有権制度が確立された明治時代以前、主に集落内の住居を結ぶ道や、狩猟・採取などを行うためのムラの道として、地元住民によって作られて、コミュニティの利便に供された「里道」は、特定個人による排他的な利用や管理は行われず、コミュニティにおいて自由に利用し、共同で管理することを本来の姿とする。しかし、現在では、多くが機能喪失か自動車道化し、利用者≠管理者≠所有者と分離され、権利と義務の関係も一体ではなくなった。

自動車交通を主とした広幅員の道路は住民にとってはある種の境界となり、コミュニティを分断するが、里道は逆にコミュニティのつながりを生み出しうるものである。人が歩いて、立ち止まり、話し、そして子どもがちょっとした遊びを行う場ともなる。また、里道に沿った建築物の意匠やかたち、空間に「出される」縁台や鉢植え、並木、雑草などにより、個性的な空間ができる。

そして、里道を支えてきたのは、「道普請(みちぶしん)」というコミュニティの共同作業であり、入会地と同じくコミュニティの結節点ともなっている。これらすべての要素に通じるのは、人と人、コミュニティとコミュニティ、あるいは人とコミュニティのつながりの存在である。その空間を単に通過することだけが主たる目的とはならない。

今、里道に注目し、それを新設したり、再生したりする意義として、まちづくりの一端を担えること、コミュニティの自然資源へのアクセス路を保持することがあげられる。また、里道を廃止したり、付け替えをしたりする場合は、原則として隣接土地所有者全員の同意を得ることを自治体の条例で課せられている場合が多く、この権利を盾にして、主に里山の乱開発を阻止しうる役割をあげることができる。たとえ、山は買収されても、網の目状に張り巡らされた「里道」を廃止ないしは付け替えをしなければ、事業者は自由に開発ができない。ここでは、「里道」を乱開発阻止の手段として用いられた鎌倉の広町緑地の事例を紹介する。


里道で乱開発を阻止

広町緑地は、鎌倉市西部の腰越地区に位置する樹林、谷戸、水系で構成された約60haの里山である。昔は、「津村の山」と呼ばれ、1960年代半ばまでは、農業や林業などの生業の場として利用されていた。谷戸の両脇の道や尾根の道などは、大雨などで道が崩れたら、山にかかわっている人たちが合同で道普請をしていた。しかし、1960年代後半から林野の利用がほとんどなくなり、荒廃していった。そして、1970年、風致地区に指定されていた広町緑地は、市街化区域に指定され、宅地造成が可能になり、一大転機を迎える。

1978年、広町緑地に開発計画があることが地元住民の知るところになり、激しい反対運動が展開されることになる。緑地近くの新興住宅地にある新鎌倉山自治会は、1983年、6万人余の反対署名を当時の中西功市長に提出、翌年には周辺8自治会・町内会(世帯数約4500)により「鎌倉の自然を守る連合会」が結成され、ここが運動の中核を担った。1985年には、市長や市議会副議長等も参加しての市民集会が開かれ、全市的な運動となっていく。

1989年、中西市長は「緑保全を基調とした都市整備を図る」との名の下に一部の開発を容認したことから、事態はまた切迫していく。しかし、1993年、緑地保全を公約とする竹内謙が市長に当選し、市は保全に向けて基本方針を転換した。1997年、「鎌倉市緑の保全及び創造に関する条例」が可決、1998年、連合会は「鎌倉広町みどりのトラスト」を始動させ、市および市民側は開発阻止へとさまざまな手段をとっていった。そして、2000年9月には、鎌倉市議会で広町を都市林として保全する「広町の緑地保全に関する決議」が採択され、市は開発に携わっていた事業者、戸田建設、間組、山一土地に対して買収の申し入れをした。

2002年10月、事業3社は開発を中止し、用地を市に売却することで鎌倉市と基本合意する。2003年12月、総額113億円(神奈川県20億円、国20億円、鎌倉市緑地保全基金35億円、鎌倉市38億円)で買収、晴れて公有地となり長期的な保全ができる体制となった。事業3社以外が保有していた残りの土地もほぼ2006年2月までに買収が終わっている。

以上が、広町緑地の開発問題の歴史であるが、それでは「里道」はどう扱われていったのであろうか。1898年の公図で現在の広町緑地を確認すると、網目状に「里道」を示す赤い線が引かれている。この「里道」は、生業の場として緑地が利用されているときには、当然ながら日々利用され、道普請がされるなどの修繕もされていたが、緑地の荒廃が進むとともに「里道」は周辺と一体化し機能を喪失してしまった。その後、事業者との紛争が始まるが、「里道」の存在は忘れ去られていた。

しかし、1991年、開発反対運動だけではなく、直接、緑地にかかわる保全運動も大切ではないかという考えが近隣の少数の住民から出て、「ハイキングコースを守る会」を結成した。緑地自体は事業者の私有地となっており立ち入ることはできないが、「里道」は機能を喪失していても存在はしているため、草刈りをしながら「里道」の捜索と再生の活動を行った。ただ、事業者との紛争が拡大している時期でもあり、保全活動にはあまり注目が集まらず、細々とした活動となった。

1998年、「里道」に新たな展開が生まれる。当時の鎌倉市長、竹内が、「里道」を政策的に利用したのであった。1998年10月、竹内市長が、開発事業者側と直接会見し、開発区域内にある24路線、延べ6kmもの「里道」について売却や新設道路との交換を行わない旨を伝えた。売却や交換がされなければ、宅地のなかに網目状の道が残ることになり、開発が困難になることが想定された。

同年12月には、「古道活用市民健康ロード構想(仮称)」を策定、「里道」としての機能を喪失していたものを再生し、旧鎌倉や大船にも広げて市民のためのフットパスを作る計画を掲げたが、広町緑地の全面保全を推し進める開発反対住民からも市議会からも非常に不評であった。なぜなら、市長は開発阻止のための計画ではないと主張したためであり、また「市民のためのフットパス」といいながら市議会はおろか市民への事前の相談もなかったためである。しかし、竹内は、後先を考えず、ただ思いつきで提案したわけではなかった。

竹内は、広町緑地をはじめとする鎌倉市の三大緑地の保全を公約にして当選しているため、広町緑地の開発には反対の立場であったが、法的には市街化区域の緑地であり永遠に開発申請を受理しないことは困難であった。それゆえ、1998年2月、「開発を認める行政手続きの凍結を解かなければ損害賠償請求を起こす」という事業者の圧力があったこともあり、市は、開発事前審査通知を事業者に交付している。ただ、実際にフットパスを作るかどうかはさておき、「里道」を盾にして、合法的に開発のスピードを落とすようにしたのであった。

市長退任後であるが、竹内は、開発阻止の手段として、(1)財産権の制約=「公共の福祉のため」(憲法第29条第2項)を持ち出して現行法の不備(憲法違反)を主張する、(2)法律の網の目を潜って奇策を講じる、(3)事業者に「企業の社会的責任」を声高に叫んで尻込みさせるという三つしかないと書いている。広町緑地では市長としては(2)の手段をとり、市民運動としては(1)や(3)の手段をとって、合法的に業者を泣かせるという方策に出たのであった。

竹内が提案した「健康ロード構想」は1999年10月に廃止となったが、それと前後する形で、「ハイキングコースを守る会」とは別に、市民主導での「里道」の再生が行われるようになる。主に地域外の住民からなる「鎌倉・広町の森を愛する会」の代表(当時)の池田尚弘は、「里道」は入会地と同様、地元住民共有の財産であり、住宅開発をすることで、その共府財産を業者が勝手に侵害することは許されないと考えた。

そこで、ただ反対するだけではなく、この「里道」を修復し、再活用することによって、忘れられていた共有性を復活する活動「もののふの道・グランドワークトラスト」を展開した。ボランティアが草刈りや倒木の盤理をし、道標が作られた道は、「もののふの道」と命名され、今では里道を私たちが享受できるようになっている。2009年5月には、トラストとは別に、市民の有志が「散策路の会」を立ち上げ、鎌倉の自然を守る連合会やNPO法人鎌倉広町の森市民協議会の支援を受け、里道の保全・活用が行われるようになっている。

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この事例では、「里道」が持つ、本来の「ローカル・コモンズ」としてのあり方を取り戻そうとすることで乱開発を阻止し、緑地保全を実現させようとしています。持続可能な社会につながる「ローカル・コモンズ」に、これからも注目していきたいと思います。


(枝廣淳子)

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