ニュースレター

2004年07月01日

 

水俣病問題からもやい直し、環境モデル都市への挑戦 - 熊本県水俣市

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JFS ニュースレター No.22 (2004年6月号)
シリーズ:地方自治体の取り組み 第6回

近代化の歪みの象徴としての水俣病

日本では、エネルギーをはじめ自動車の部品、パソコン、紙おむつなどの身近なものまで、数え切れないほどの石油化学製品に囲まれた「便利で豊かな生活」をおくることができます。この生活は、第二次世界大戦後の重化学工業が中心の産業政策による、急激な経済発展からもたらされました。

1956年、日本の経済成長率が著しい伸び率を示し、経済白書が「もはや戦後ではない」と謳った年の5月1日、熊本県の病院から、「原因不明の中枢神経疾患発生」という報告が地元の保健所にありました。日本の公害の原点であるといわれる水俣病は、この日、公式に発見されたのです。

水俣市は九州の南西、熊本県の最南端の不知火海に面した場所にあります。

現在の人口は約3万2000人。市内を流れる水俣川は源流から河口までが市域にあり、いくつもの支流が合流して水俣湾に注いでいます。不知火海は、九州本土と天草諸島に囲まれた内海で、水俣湾はかつて「魚が湧いてくる」といわれるほど魚介類の豊富な海でした。沿岸の漁師たちは、漁をしながら裏山で野菜を育てる暮らしをしていました。

1908年、日本窒素肥料株式会社(現チッソ)がこの自然豊かな地で操業をはじめ、水俣市の雇用や所得に大きく貢献しました。水力発電の会社としてスタートした同社は、その電力を利用してカーバイト工場をつくり、やがて化学肥料の生産から、酢酸、塩化ビニールやそれを形にするときに必要な可塑剤の生産に力をいれるようになりました。

チッソは1932年から36年間にわたり、酢酸や塩化ビニールの原料となるアセトアルデヒドをつくるときの触媒として無機水銀を使用し、その過程で副生されたメチル水銀を、なにも処理をせずに水俣湾に流し続けました。この間に漁獲量は激減し患者数は急増。排水停止を求める不知火沿岸漁民と、原因を認めず、抜本的な対策を講じない行政や企業との対立が顕在化していきます。

メチル水銀は有機水銀の一種で、胃腸から吸収され、肝臓や腎臓、脳や胎児にまで運ばれて体内に蓄積されます。蓄積されたメチル水銀は、主に神経系を侵し、手足の痺れや耳鳴り、視野狭窄などの症状を引き起こします。初期のころには、突然意識不明になり、発病から1ヶ月もたたずに亡くなってしまう劇症型の人も現れました。

水俣病対策の遅れは、患者数の増加を招き、健康被害という直接の被害だけにとどまらず、漁業からの収入と生きがいを奪いました。水俣病の認定や補償をめぐっては、「奇病」、「伝染病」、「ニセ患者」などいわれのない差別や偏見との闘いをも余儀なくされ、住民同士のつながりはだんだん壊れてしまったのです。

1996年10月、5つの被害者団体が日本政府の解決案を受け入れたことから、水俣病問題は1956年の公式確認以来40年を経てようやく最終的な解決を迎えました。けれどもそれは金銭的な補償の問題であり、今もなお患者であることを隠しつづけなければ生きていけない人や、現在生きて暮らしている人たち、亡くなった人たちを、地域ぐるみでどのように支えていくのかという課題は残っています。

環境モデル都市として水俣市の再生へ

水俣市では、1990年3月から「環境創造みなまた推進事業」が展開されました。地区懇談会やワークショップ等を数多く開催して、「水俣病の犠牲を無駄にしないまちづくり」について話し合いを行った結果、事業には環境が破壊された町だからこそ、環境で町をたて直す「もやい直し運動」であるという意味が含まれました。「もやい」とは、船と船をつなぎとめることを指し、協働で事をするという意味の言葉です。

1992年には環境モデル都市づくり宣言がなされ、水俣病の教訓を活かした環境都市への取り組みが本格的にスタートしました。環境水俣賞の創設や、ごみの21分別、足元を見直し地域のあるものを探す「地元学」や、環境や健康に配慮したものを作る人を、環境マイスターとして認定する制度など、包括的な環境都市づくりが目指されています。

地元学については、2003年10月号(NO.14)のニュースレターをお読みください。
http://www.japanfs.org/ja/join/newsletter/pages/027248.html

ごみの21種類分別と減量化への取り組み

1993年から、ごみの20分別を始めた水俣市では、2003年現在、各地のごみステーションで21種類の分別が行われています。水俣方式と呼ばれる方法は、全国から多くの人が視察に訪れるようになりました。

その後、ごみの分別収集を始めた当初に約半分まで減ったごみは、もとに戻ってしまったことから、分別するだけではなく、減量化にむけた取り組みが始まりました。

1997年12月に水俣市内の婦人会など、16団体の女性の代表者でつくる『ごみ減量女性連絡会議』が発足し、ごみ減量に必要なしくみづくりの検討と実践がなされました。

まず、市内の大型小売店舗と「食品トレイの廃止申し合わせ書」の締結をして、環境に配慮した店づくりに取り組んでいる店を「エコ・ショップ」として認定する制度を始めました。そのほかにもレジ袋をなくし全世帯に「お買い物袋」を無料配布することや、ごみ減量紙芝居による環境教育の実施などを行っています。

このような活動は、1999年の自治体環境グランプリ大賞の受賞や、元気なごみ仲間の会主催による2001年度の「元気ごみ大賞奨励賞」として評価されています。

2002年12月からは、生ごみの分別収集も開始され、各家庭から出された生ごみは、市が回収し、堆肥工場で堆肥化されています。

ISO14001認証取得から家庭版、学校版への広がり

水俣市庁舎は1999年2月にISO14001の認証取得をしました。自治体のISO14001認証取得は多くなっていますが、水俣市の特徴は、市で取得したあとに、簡易なシステムを家庭版、学校版へと展開したことにあります。

家庭版環境ISOは、まず環境にいい暮らしづくりに取り組むことを宣言することから始まります。そして家庭における行動を35項目の中から選択して、その計画を応募します。自分で行動を記録し見直しを行った後、3ヶ月後に審査され、合格した家庭は市長から3年間の認証が与えられることとなります。審査には、水俣市青年会議所とごみ減量女性連絡会議があたっています。

学校版環境ISOの取り組みは市内全域の小中学校で、2000年5月から実施されています。各学校で職員、児童・生徒がそれぞれ省資源、リサイクル、省エネルギーなどの項目から「教室の照明をこまめに消す」など、子供たちと先生がそれぞれ5項目以上を宣言し、成果を記録、見直しを行います。3ヶ月後に水俣市の教育委員会や環境対策課によって審査され、合格すると市長と教育長から3年間の認証が与えられるしくみです。

現在この取り組みは市内の保育園、幼稚園に広がり、保育園幼稚園環境ISOの取り組みが始まりました。また、旅館・ホテル版環境ISOや、畜産版環境ISOなど、市内のさまざまな業種に広がりつつあります。

2003年9月には水俣市が、外部認証機関の認証を受けずに、自前で運用するISO14001自己宣言を行い、市民が市役所の取組みを評価する市民監査制度を作って運用しています。

水俣病事件は大きな犠牲とともに、私たちに、生命の源である「水」と「食べ物」がいかに大切なものであるかを、水俣市の取り組みは、家庭や事業所から出るごみは、決して自然を損なうものであってはならないことを教えてくれます。私たちは、物質的な豊かさをささえるために起きた水俣病という公害を、未来に伝える役割も担っているのです。


(スタッフライター 八木和美)

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